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赤喰い(7,718字)

 町田竜輝は困惑していた。大学の友人たちと夕飯を食べながら数時間を過ごし、東京から千葉の家に戻るため最終電車に乗りこんだ。乗り換えを二回したことまではしっかりと記憶にある。そこから五駅で、地元に着くはずだった。しかし、一体いつの間に眠ってしまったのか。乗っていた電車は複雑なパイプの通っているトンネルや住宅街ではなく、見慣れない山奥の道を走っていた。 「終点、終点です」
 無感情な駅員の声。機械的に耳の奥を撫でた音へわずかなノイズがはしっていたことに気がつかないまま、急かされるようにして駅へ降り立った。他に誰も乗っていなかったのか、空っぽになった電車はオレンジ色の薄明かりをまといながらゆっくりと去っていく。ギイギイと車体が軋む音、線路に車輪が触れるざらついた音が耳に残った。
 呆然と電車を見送ったあと、慌てて携帯電話で時間を確認する。画面には時刻の代わりにまぶたを閉じたような無機質な記号だけが四つ並んでいた。思わず舌打ちをする。最終電車が駅を出発したのは、午前零時二十三分。確実に他の電車はないだろう。
 携帯電話で先程まで遊んでいた友人や両親へと連絡を試みるが、メッセージは何度送っても届かない。電話もノイズがざらざらと続いたあとにブツっと切断され、通じない。現在地を調べるためにGPS機能を起動してみるが、画面は「現在地を検索できません」という文字をあらわした。圏外でもないのに、どうにも携帯電話の調子がおかしい。
 インターネットカフェやカプセルホテルを探すか、タクシーでも拾うか。野宿でも仕方がない。そう思いながらあきらめてホームを歩きはじめたところで、町田竜輝はふと言い知れない違和感に気がついた。
 足元のコンクリートはところどころから剥き出しの鉄骨が見えていて、頼りなく崩れている。街灯なんて数えるほどしかない。もはや意味のない光が道路をか細く照らしだしている。妙だと、首をかしげた。終点とはいえ、こんな駅は知らない。見たことがない。膨らんでいく不安のなか、歩き続ける。ホームから改札へと動いたところで、すっかり錆びて塗装も剥がれた看板にうっすらと読むことのできた駅名は。
「きさらぎ、駅」
 血の気が引く、という経験を、町田竜輝は人生で初めてした。きさらぎ駅。聞いたことがある。夏の怪談としてインターネットの世界では有名な話だ。
 ある夜、帰宅途中だった女性はいつもと電車の様子が違うことに気がついてインターネット掲示板に書きこみをした。周りの乗客は眠ってしまっており、電車が着いたのは本来どこにも存在しないはずの「きさらぎ駅」という場所だと。歩いて帰ろうとする女性の耳に聞こえる祭囃子、覚えのないトンネル。警察にいたずら電話だと思われながら場所も特定できないまま、インターネット上で行われていた四時間にわたる実況の書きこみとインターネット掲示板住民たちとのやりとりは突然ぱったりと途絶えた。
 「きさらぎ駅」は夏の風物詩として静かに語り継がれる、本当のことか嘘なのかわかっていない怪談話だ。
 しかし今、町田竜輝の目の前には確かに錆びた「きさらぎ駅」の看板があって。携帯電話は通信機能だけ調子が悪い。
「マジかよ」
 今日は家に帰ったら明後日提出するレポートを書きあげる予定だった。眠くなると困るから、と酒は一滴も入れていない。触れた看板のざらつきはやけにリアルで、吸いこむ空気はゆるく熱をおびて湿っている。夏のにおいがしている。
 夢ではない可能性がある、という考えが浮かんだ。すぐに首を振って否定した。こんな非現実的なことがあってたまるか。くちびるを噛んでもう一度携帯電話を見つめる。一本だけ頼りなく立っている電波アンテナにどうしようもなく安心した。
 町田竜輝は幽霊や妖怪の存在を信じていないのだ。きさらぎ駅についてだって、大学の友人から夏の怪談として聞いた程度だ。来たいだなんて思ってもいなかったし、創作にしてはよくできているな、と感心していた。
 きさらぎ駅なんて、存在しないつくりものだと笑っていたのに。
 とにかく誰か人間を探さなければ。焦る気持ちに蓋をして、冷静を装いながら歩く。改札をくぐろうとしたところで、ゆっくりと神経を撫でつけるような声がした。
「いらっしゃい」
 鈴のような音。耳元で涼やかな声がして、町田竜輝は弾かれたように顔をあげた。目を凝らしてみるとチカチカと点滅する街灯のずうっと奥、深い闇が続く道から真っ白な人影が歩いてきている。ゆっくりと、街灯が息を引き取るように消えた。
「な、なんだ、人が」
 いたのか、という言葉は途切れた。街灯が消えた道で、迷いなく滑るように歩いてくる影はその姿をはっきりと捉えることができた。ぴんと張りつめた空気が明らかに温度を下げたことに気がついて足がすくむ。肌がふつふつと粟立って、その空間を支配する圧倒的な恐怖に唾を飲みこむことすらも難しい。
 鼓膜を震わせるのは町田竜輝の恐怖を助長していくだけの、賑やかな鈴と太鼓の音。祭囃子。よく見てみると真っ白い着物を着た足元は裸足で、影には足音もなかった。まばたきをすることすらもはばかられた。人間ではない何かだと、悟った。
 帯にかかる白銀の髪を揺らして影が町田竜輝のもとへ一歩近づくたび、世界は冷えていく。本能が逃げろと頭のどこかで警鐘を鳴らすのに、町田竜輝の脚や視線はぴくりとも動かせずにいた。呼吸が浅くなり、心音が直接脳に響いてくる。急激に襲ってきた吐き気。ぷつっと糸が切れたように膝から崩れ落ち、駅の冷たいコンクリートに這いつくばって嘔吐した。幾度となくせり上がってくる胃液を押しとどめることができない。呼吸を遮るほど繰り返し喉を逆流していく嘔吐物を吐くことは、絞りだす行為に近かった。震える体から確かに失われていく水分とともに、血液が凍っていく感覚がした。
「人間か」
 鈴の音が耳奥で爆ぜた。吐息まで感じるほど近くで声が聞こえるのに、影と町田竜輝の距離は確かにあった。銀の髪に白い着物。影の正体は額のあたりから鋭く長い角のようなものが二本生えた、幼い少女だった。
 突き刺さるように、心臓を鷲掴みにするように、神経の隅々まで毒で蝕んでいく声が意識を朦朧とさせた。少女からは何の感情も見えない。えずきながら泡混じりの涎をコンクリートに落とす町田竜輝の目の前に立ち、ゆっくりと顔を覗きこんできた瞳は透き通る金色で、瞳孔が縦に細い。猫のような、飴玉にも似た瞳。
 毛先の一本でも動かしたら、即座に首をはねられ殺されると直感した。震えてガチガチとぶつかる歯がさらに町田竜輝の恐怖心をあおる。じっくりと舐るように、あるいは値踏みするように町田竜輝を見つめていた少女の瞳が三日月型に細められる。桜に薄く色づくくちびるが左右にかぱっと開かれると、真っ赤な咥内には尖った歯が二本その存在を主張していた。裂けるように笑う少女はするりと布が落ちるのに似た、流れる仕草でしゃがむと腕を伸ばす。金と赤がぽっかりと白い肌に浮いている満面の笑顔で、動けないまま年甲斐もなくぼろぼろと涙を流す町田竜輝の頬に触れる。
 その手は氷よりも、もはや死人に近い。血液の通っていない、硬く冷たい手のひらをしていた。「こんなに緊張して、かわいそうになあ」
 憐れみの声色で、しかしケラケラと笑いながら少女は立ちあがり、満足げにくちびるを舐めた。出された舌はふっくらと厚く、舌先が二又に分かれている。蛇と同じ鋭さをもった、血のように赤い色だ。
「ここに来た人間は五人目だ」
 声が聞こえるたびに頭痛がする。目を開けていられないほどの痛みにまた嘔吐した。軽やかに嘔吐物を避けて首をかしげた少女はゆっくりと町田竜輝の頭を撫でた。それは幼子を甘やかすような、やわらかい手つきで。呼吸がすこしずつ落ち着きを取り戻し、神経の緊張がほぐれていく。
「人間の子ども。お前、一体どこから入ってきた?」
 少女は見た目にそぐわない口調で町田竜輝に語りかけてくる。町田竜輝の身長は同世代よりもちいさいが、少女は彼の腰ほどもないだろう。小学校低学年と間違ってもおかしくない幼さをしている。銀の髪と額の角に目をつむれば。
 ぽんぽんと叩くように頭を撫でる手のひらは相変わらず冷たいのに、言葉の端々はていねいでやさしかった。
「ゆっくり息をしろ。だいじょうぶ、私はお前をとって食うわけじゃない」
 私は、な。念を押すようにつぶやいて、町田竜輝の言葉を待つ少女がぱっと目を開く。まばたきを一度もしないまま、じっとして。辛抱強く。町田竜輝に言葉の意味を考える余裕はなかった。ようやく落ち着きはじめた呼吸に音をつけることで、せいいっぱいだった。
「ど、こから、って」
「迷子でなけりゃここには入って来ないだろう」
「で、でんしゃ。電車でここまで着いて」
 はっきりとしない意識のなか、やっとのことで言葉をつむぐ。胃液のすえたにおいでまた吐きそうになる町田竜輝を少女はあやすように撫で続けた。
「電車?ずいぶん前からあちこちを走っているあの妙な箱のことか」
「それで」
 はたと、言葉が立ち止まった。どうしてここに来てしまったのか、町田竜輝にはわからなかった。彼は電車に乗っていただけだ。いつの間にか眠ってしまっていて、気がついたら知らない駅に着いていた。目の前の少女が近づいてきた途端、急に嘔吐した。それだけだ。それだけが、知っているすべてだ。
 わからない。少女へ正直に答えながらよろよろと立ちあがり、服の裾を引っ張って口元を拭った。額にはじっとりと汗をかいていて、一気に奪われた体力のせいか目を開けていることすら気怠い。町田竜輝を見上げるかたちになった少女はなんの表情も浮かべずに瞳を合わせてくる。沈黙は数秒だったが、一分にも一時間にも等しく感じた。嘘をついていないか試しているようにも見えるその金色の透き通る瞳を逸らすことは、町田竜輝に許されていなかった。
「どうやら、まくらがえしの悪戯らしいな」
「まくら、がえし?」
「妖怪の仲間だ。たまに悪さをして人間をこちら側に連れてくる。同じく悪さをした人間ならば食ってやるところなんだが、あいにくとお前に怒りのある道祖神たちはいないようでな」
 すまなかった。ぺこりと、ていねいに頭を下げた少女は再び裂けるような口元を見せる。まくらがえし、妖怪、道祖神。耳慣れない単語に困惑する町田竜輝に背を向けた少女は二言、三言なにやら甲高い雑音のような言葉を改札の向こうに広がっている深い闇へ投げかける。そして、おおきくこくりとうなずいた。町田竜輝に背を向けたままで、問う。
「帰りたいか?」
「あたりまえだろ」
 ほとんど反射のように答えたため、声が上ずった。迷いもなく言い切った言葉を聞いて少女の背中がわずかにちいさくなる。改札の奥の森がざわざわと風もないのに揺れた。再び甲高い雑音を一言だけ闇に向かって発した少女が、ゆっくりと鈴音を響かせて笑ったように見えた。
「では、帰してやろうか。前に来た女子はみんなで食ってやったんだがな、お前はいい子のようだから。残念だが、今回は見逃そう」
 みんな、という単語がひっかかったが、気にしていられない。せっかく元の世界に帰してくれると言っているのだ、少女の気が変わらないうちにどうにかしてもらいたかった。
 ただひとつだけ、町田竜輝はおそるおそる問いかける。
「あんたは、神様なのか?」
 空気が凍ったのは。自分が嘔吐するほどに強ばったのは。恐怖心に支配されたのは。すべてこの目の前の少女ひとりが町田竜輝に与えた影響だ。訝しげに尋ねる声を聞いた少女はカラカラと鈴が爆発するように笑う。頭に直接響くその声がまた町田竜輝のなかに言い知れぬ不安を生みだした。それは這い寄ってくる恐怖に、どうしようもなく似ている。ぐっとくちびるを噛んで耐えた。胃のなかはもう空っぽなのだ。
 ひとしきり笑った少女の背中はしばし考えるような仕草を見せ、それから解答する。
「神様、ねえ。お前たち人間からすればある意味では似たようなものかもしれないがな」
「似たような、って」
「私たちは鬼だよ、マチダタツキ」
 少女が振り向きざま言い放った声と共に、胸元を強く突き飛ばされて町田竜輝はよろめいた。鬼だと言う少女に怯えることも、名乗っていない名前を呼ばれた事実に驚くこともできないままで、ぐらり、ホームから転落する。すぐさま後頭部にぶつかると思った線路の衝撃は訪れず、落とし穴に埋まっていくように視界の真ん中にいた少女は遠ざかっていく。
 鮫のように鋭いギザギザとした歯を見せてくちびるの端を吊り上げ、町田竜輝を見おろす少女は笑っていて。彼女の背後には、飢えた大柄の妖怪たちが残念そうな瞳で立っていた。きさらぎ駅の改札を出た向こう側。そこに広がっていた深い闇は、はじめから森でもなんでもなく町田竜輝を餌として待ちかまえていた妖怪たちだったのだと知った。
「名はもらった。次は逃がしてやれないからな」
 途切れる意識のずっと奥で、町田竜輝は少女が手を振る鈴の音を聞いた。



「終点、終点です」
 アナウンスの声で意識が戻ってくる。町田竜輝はゆっくりとまぶたを持ち上げた。明るくなった視界には空っぽの座席と揺れる吊り革が入りこんで、ふと脱力する。着ているTシャツは首元がびっしょりと濡れてはりついていて、全身を襲う倦怠感に首をかしげた。
 何も覚えてはいないけれど、ただ漠然と。悪夢をみていたような、気がしていた。
 扉が開く。怠さを抱えたままの脚で立ちあがり、電車を降りた。酒を飲んだはずはないのにおぼつかない足取りをしていて、困惑する。ただ眠っていただけで、どうしてこんなに疲労感が溜まっているのだろう。
「終点」
 つぶやいた声がホームに反響する。ベンチで眠っている学生や柱を背に座りこんでしまっているサラリーマンに駅員が声をかけていた。もうすこしで駅が閉まるのだろう。明るい駅は慌ただしく時間を刻んでいる。
 携帯電話の電波アンテナは三本。時刻は午前一時五十二分を示している。ここから地元までは六駅だから歩くのも面倒で、始発までインターネットカフェかカプセルホテルでも探そうと歩きだした。
 電子式のタッチパネルにICカードを押しつけて、改札を通りすぎたところで電話が鳴った。ディスプレイに表示されたのは一時間半ほど前まで一緒にご飯を食べていた友人だ。電話だなんてめずらしいこともあるんだな、と軽いきもちで電話をとった。
「はい」
「あ、やっと繋がった!お前、何回電話したと思ってんだよ!」
「ごめんな、気がついたら電車で寝てて」
 「寝てた? 冗談だろ、寝ぼけてあんなメッセ送ってくんのかよふざけんなよ!」
「は?」
 明るく笑ってみせる町田竜輝とは対称的で、友人の苛立ちは一方的かつ感情的だった。怒鳴ってくる声は切羽詰っていて、恐怖に怯えている。町田竜輝は思わず立ち止まる。ほんの数時間前にハイボールを五杯も飲んでぐにゃぐにゃに酔っ払っていた友人と同一人物だとは到底思えなかったし、友人のこんな声を今までに一度も聞いたことがなかった。
「イタズラにしては趣味悪いだろ、ホントなんなんだよ」
「ちょっと待ってくれ、何があったよ」
「こっちのセリフだっての……はじめは暗号かと思ったのによお」
「メッセがか?」
「いやもう見たくねえし思いだしたくねえ、お前が元気ならもういい。寝るわすまんな」
「お、おう……心配かけて悪かったな」
 情けない声で一方的に電話を切られ、町田竜輝は数度まばたきを繰り返した。メッセージに何があったのか、と送信済み一覧を開く。
 そこに残されていたメッセージは。
「sjwdgavmd?7mpd?」
「あ419pawukhなnd?」
「286atgm9gwoたすけ」
「たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて」
「おにgiawhekkくらいころされる」
「しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない」
「きさらぎえきがおれをよんでる」
 目で追ったメッセージ。突然こみ上げた吐き気があって、震える手のひらで振り返り、ホームに向かって携帯電話を放り投げた。それはコンクリートを滑り、スピードを保ったままで勢いよく線路に落下する。見てはいけないものを見た、という思いがなによりも強かった。何か動物が歩いていたのか、携帯電話の落ちた方向で動物の激しい鳴き声が一度だけした。
 たった今、悪夢として忘れた記憶。携帯電話なんか使わなければきっと一生忘れたままでいることのできた記憶。それらが頭のなかでパズルのピースのようにかちかちと正しくはまっていく。きさらぎ駅。鬼。奪われた名前。
 次は逃がしてやれないからな。そう言って笑った少女の声が耳の奥に残っている。ぱちん。町田竜輝の瞳がまばたきをすると、ふと、世界が欠けたことに気がついた。まずは、駅員。
 ゆっくりとまばたきをするたびにホームにいたはずの人影はひとりずつ消え去って、明るく温度があった世界から色彩は奪われていく。塗装が剥がれるようにして現れた冷たいコンクリートも、ゆるやかに錆びていく駅名の看板も、処刑台へ一歩ずつ進むために用意された道のりだとしか思えなかった。
 「おかえり、マチダタツキ」
 鈴の音。まばたきをすると、改札の向こう側に鬼の少女が姿をあらわした。その腕には頭蓋が割れ、絶命しているハクビシンがいる。生き物ではなくなった冷たいハクビシンを抱く少女の着物も、髪も、くちびるも血に濡れていた。あかい。あかい色がコンクリートを染め、流れていく。あかに濡れた少女は頬を染め恍惚とした表情でハクビシンに食らいついた。美味しそうにハクビシンの毛皮を剥がし、顔を左右に振って肉を噛みちぎる。血飛沫を浴び、内臓の飛びでたそれに顔面を押しつけて三日月の瞳で笑う彼女はただただうつくしかった。
「お前を気に入ったからせっかく帰してやったのに、人間の世界はずいぶんと発達したんだな。そこはそいつらの領域だ」
 頭の奥で声がする。改札を越え、呆然とホームを見つめる町田竜輝の背後から生臭いにおいとたくさんの気配がした。腕だか影だかわからないものが伸びてくる。
「俺は脚が欲しい」
「あたいは目玉かなあ」
「人間の皮は炙ると美味いんだよな」
 脳に流れこんでくる言葉たちはすべて町田竜輝を餌と認識した妖怪たちのものだとわかっている。けれど、恐怖心はなかった。少女の食事を静かに見つめながら、町田竜輝はゆっくりと闇に飲みこまれていく。最期にその瞳で見た、彼の世界で最も美しいものはハクビシンから毟り取った毛皮をしゃぶる、鬼の姿。
 忘れたままでいたほうが幸せだったのに、人間という生き物はやはり馬鹿だな。
 どろりとした液体に体中の穴を塞がれ、すべての光が遮断される瞬間。町田竜輝の鼓膜へくちづけをしていると錯覚するほど間近で、うれしそうに、おかしそうにつぶやく鈴の声を、聞いた。

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