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完璧な幸福(1,953字)

 損なわれない永遠が欲しかった。
 私にとってクローバーの葉は四枚が当たり前で、三枚の葉をしたものこそが異形な、醜い植物だと思っていた。それは父の影響だ。幼い頃に父からもらった初めての花束は、クローバーの葉を集めて作られていた。柔らかなレースのリボンで飾ったその植物は、どれも綺麗に整った四枚の葉をしていた。
「四葉のクローバーは、幸福の象徴だよ」
 そう言って、目尻に深いしわを刻んでほほ笑む彼を、深く愛していた。

 公園でしゃがんでいたために砂のついたスカートの裾を軽く振り、立ちあがる。陽が傾いてきていたことに気がつき、帰り支度を始める。父は何年も前に自動車事故で死んだ。私は今日も、思い出の四葉を探している。
「ただいま。また二つしか見つけられなかったわ、ママ」
 母と二人で暮らしている家に帰って声をかけるが、彼女からの返事はなかった。いつものことだ。きっと寝ているのだろう。足音を立てないように階段を上がり、父が生きていたとき、彼が使っていた書斎に入る。置いてあるものは医学書が中心のため、棚に入っている分厚くて表紙のしっかりとした本は、どれも外国語で書かれた難しいものばかりだ。成人した今でも、よほど必要がない限りその本たちを手に取る気にはなれない。
 埃を被った、もう何年置いているのかもわからないソファに座ると、中でばねの軋む音がした。そのまま体を傾けて窓を開ける。日当たりはあまり良くないが、大きな窓を開けたときに入ってくる風が心地良い。部屋の主人がいなくなり、ほとんど使われることもなくなって、どこもかしこも埃っぽく少しかび臭くなってしまったこの空間が、私は好きだった。
 窓際に置かれた、水の入っていない花瓶の花束に触れる。すっかり水分を失って、かさついたクローバーの花束。ドライフラワーなのか、枯れてしまっているのか見分けがつかない。強く握ると崩れてしまうそれを壊さないように手を伸ばす。だが急にバランスを崩した花束が傾いて、葉が二、三枚落ちた。慌てて手を離す。少し揺れ、それから平穏を取り戻す様子を、声を殺して見つめた。父との優しい思い出をここで壊すわけにはいかないと、緊張していた。数枚の葉が落ちた以上は崩れない姿に安堵する。だが、よく見ると、クローバーが四葉から三葉になっている部分がいくつかあった。
 そこに感じたものは、明らかな違和感。落ちた葉を爪先で摘まんで拾う。薄いその葉の根元には、透明に乾いたのりのようなものがついている。他の葉も同じだった。
 少し考えて、そうして私は悟った。私が欲していた、幸福の象徴を表すその花束は、三枚の葉の根元に接着剤を塗り、もう一枚を丁寧に接いだ、偽物で作られていたのだ。信じていた、唯一信じたかった当たり前は、本物ではなかった。
 思わず声をあげて笑った。ソファへ勢いよく寝転がり、舞い上がる埃を気にもせず、子どものように脚をばたつかせた。ずっと、わかっていたことだった。けれど同時に、ずっと信じたくなかったことだった。遺影の父と、鏡に映る女の姿がいつからかまったくの別物になっていることを、私はとっくに、気がついていた。

 翌日も、クローバーを探しに行った。普段は四葉だけに限定して毎日探し歩くために時間がかかっていたが、今日は少し多めに三葉を持ち帰るだけでいい。答えのわからなかったクイズが今になってようやく解けたような気持ちで、私の胸は弾んでいた。
 家に帰って、母に声をかける。彼女から今日も返事はない。けれどそれは、気にするまでもないことだ。
 私はかつて父が、恐らくそうしていたように書斎へ入り、同じように接着剤を使って、四葉のクローバーで花束を作った。父に供える「幸福の象徴」は思ったよりもうまくでき、完璧な偽物になったそれをリボンで結うと一階のリビングへ降りる。私の足取りは軽かった。憑き物がすべて落ちてしまったかのように。
「ママ、いるの?」
 返事はない。だが、母が家に居ても、どこかへ行っていても、眠っていても、死んでいても、私には何でもいいことだった。仏壇の前に座り、線香に火をつける。遺影の父は穏やかな表情をしている。
「ねえママ。私、本当はパパの子じゃなかったんでしょう。パパもそれを知っていて、段々と自分以外の男に似てくる私の成長が、耐えられなくなったんでしょう」
 母からの返事は聞こえない。それでも私は満足していた。父が昔くれたものと同じ、接着剤で作った「幸福の象徴」を仏壇に供える。
「愛してるわ、パパ。こんなに素敵なひとがいながら行きずりの男と寝て、子どもまで作るあんな女よりも、ずっと」

 損なわれない永遠が欲しかった。愛する家族と、壊れない幸せを両手に抱きしめて、当然に歩き続ける日常が欲しかった。母からの返事は、まだ聞こえない。

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