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ポリティカルコレクトネス回避としての星新一的技法の可能性

ハリウッド映画を作成するときに白人だけで登場人物を構成されがちだそうです。

「白人がキャスティングで優遇されてしまうのは、リアルに起きている」日系アメリカ人の映画監督が語る、ハリウッドの裏側
https://www.buzzfeed.com/jp/eimiyamamitsu/hollywood-shin-shimosawa

実際にキャスティングで優遇されているという告発もありますので、昔に比べると今はまだマシなのでしょうし、未来はもっと白人優遇が減るとは思いますが、問題なのは白人を当てる必要が無い場合でも無条件的に白人が当てられてしまうからでしょう。

逆に、映画でも小説でも、いい役に白人を当てて悪人や被害者役にマイノリティを当ててしまうとそれだけで批判されてしまうリスクがあるとも言えます。

極端化したポリティカルコレクトネスはフィクションには有害ですが、映像として確実にどの人種かをあてないといけない映画・ドラマなどに比べると、文字だけで表現する小説なら逃げ道というか、表現技法によってポリティカルコレクトネス的な批判を受けなくて済む可能性はあります。

具体的には、肌の色や瞳の色など本来の小説であれば緻密に書いて読み手の想像力により人物を頭の中で復元させるプロセスをすっ飛ばして表現してしまえばいいのです。

差別回避のためというわけではありませんが、その手法を私小説的な実験ではなく大衆小説としてエンタメの中に実現したのが星新一だと思います。

試しに、星新一全集第2巻を適当に開いたページから一節を抜粋してみます。

「星新一ショートショート1001 ②」(新潮社) p.656より

「やい、だれがおれを生んでくれとたのんだ」
 少年が言った。両親は悲しげな表情でそれを受けとめる。何回もくりかえされてきたことなのだが、なれることはない。
「おい、答えられるものなら、こたえてみたらどうなんだ」
 少年がまた言った。だが、父親は首をうなだれ、困惑に沈む。母親は目的もなく、おろおろと歩きまわるばかり・・・・・・。
 その時、第三者の声がした。
「答えてやろう。たのんだのはわたしだ・・・・・・」
 少年はそちらをむく。三人の男がいた。ひとりは事務的な表情の小柄な男。うしろについている二人は、無表情だが体格のいい男。少年は言いかえす。
「だれだ、てめえたち。これは家庭内のことなんだ。勝手に入ってきて、よけいな口出しはしてもらいたくねえな」

これは「少年と両親」というショートショートからの抜粋です。強気に暴力を振るい金をせびる息子に対して言うがままにさせる両親の家庭に男達がやってきてその息子を・・・・・・、という内容です。さすがにオチまで書くわけにはいきませんが、読んで分かる通り、平易な文章の中に人物そのものの描写はありません。名前すら出てきませんのでそこから人種や民族、国名を予測することも出来ません。

もともと、日本のほとんどの小説では人物描写の中で人種的特徴を描きません。日本人が日本人を書いたものを日本人が読むので、そもそも人種的特徴を書き表す必要がありません。しかし、その物語を日本を舞台として固定していること自体がもしかするとポリティカルコレクトネスであれこれ言われるようになるかも知れません。そこまで行くと明らかに行き過ぎだと思いますが、今のポリコレ自体も人によっては行き過ぎだと思っているでしょう。どこまで主張が進んでいくかは誰にも分からないと思います。

しかし、引用したように星新一の小説、ショートショートでは人物描写が極端に少なく、というかそもそも存在せず、人種どころか舞台が日本であることも分かりません。文化的背景や人物以外の描写で日本が舞台になっているということが分かる作品もありますが、大半はそうではありません。

上述の作品「少年と両親」は舞台が日本でなくどこの国でも、少年・父親・母親・男達がどんな人種でも成り立つのではないでしょうか。

かつて星新一がエッセイで、優れた小説は寓話になっていく、というようなことを書いていた気がします。

王様の耳がロバの耳であることを知った少年は、どこの国でもどんな人種でもあらすじに影響はしません。王様の肌の色が白くても黒くても黄色くても関係ありません。ストーリーとしてのフィクションが突き詰められれば寓話になるのでしょう。それは星新一的描写技法が極小の描写で極大の効果を発揮できる究極のストーリーテリングであるとも言えるのではないでしょうか。

将来的にポリコレが進んでいくと、あらゆるフィクションが存在し得なくなるディストピアが来るかも知れませんが、星新一はギリギリ最後まで残りうるのではないでしょうか。もちろんそんな時代は来てほしくありませんが。

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