芸術への批判は芸術で行うべきではないのか

少し前にリベラル批判をしたので今度は保守批判を。

今回のあいちトリエンナーレにおける従軍慰安婦像の展示に批判を加えていた人達に関してですが、批判はいいとしても展示中止を求めるのは行きすぎだったと思います。芸術作品としての展示である以上、批判的行動としては展示中止要求ではなく、逆の立場・思想・歴史認識からの芸術作品を何らかの形で出すべきだったのではないか。

芸術には芸術で対抗するべきであって、芸術表現そのものを遮断してしまうことでは対になりません。芸術の一つの存在理由として、芸術作品の表現を通じて主張を行い議論を起こすことがあります。今回の展示を通じて、この展示作品は間違っているという議論を行うべきであって、展示中止によって議論の主題がズレてしまいました。

なにより、議論そのものを封殺してしまっては、保守的な立場の人達が日頃求めている、憲法改正に関してまずは議論する場を整えようという主張と食い違ってしまいます。芸術を通じた議論ではなく、芸術展示の中止が正しいかどうかの議論になってしまったのは残念でした。

一方で、政治的にセンシティブな展示作品であることは事前に分かっていたはずですから、こういったものは公的な展覧会で行うと大きな問題が出てくるということも分かっていたはずです。その覚悟でやっていたのであれば何が起ころうとも展示を続けるべきでしたし、そこまでは思っていなかったというのであれば、想像力の欠如といわざるを得ません。

芸術にはパトロンはつきものですが、全てのパトロンがあらゆる芸術を認めるとは限りません。あくまでパトロンの理解出来る範囲での自由が許されるだけです。パトロンが公的機関で税金を使っての展示であれば当然ながら納税者が批判者になり得るわけです。

紐付きのお金は使い方が難しいです。誰にも邪魔されずに自分のやりたいことをやるのであれば自己資金でやった方がいいですし、自己資金で賄えないのであれば支援者を頼ることになりますが、その支援者も出来るだけ人数は少ないに超したことはありません。人数が多くなれば思想の数も増えます。芸術への理解の幅が、人数が多い方が狭まるからです。

今回の問題は芸術とはなにか、芸術を通じて主張するとはなにか、ということを考えるいい機会だったはずですが、双方がもはやどうでもいい、本来の芸術・芸術作品とは関係ない話で盛り上がってしまいました。どちら側に立ったとしても相手側から本質から離れた非難をされかねず、どちらの側も中心的な味方を減らしていく一方で騒ぎたいだけの役に立たない味方だけが増えていっているように思えます。そうなると議論どころか罵り合いしか行われませんから、もう今回の問題は野次馬が飽きて自然消滅するまで待つしかないでしょう。

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