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今年の夏に観た水辺の三作

  昨晩、藤田貴大が作・演出を務めた『BOAT』が放送されたのを観た。千秋楽の公演を観てすぐに感想を書いたけれど、あれから随分時間が経ったような気がする。そう感じるのは、藤田作品を『BOAT』のあとにもう2作品観ているからだろう。8月5日には新潟で『mizugiwa』が、8月24日から9月2日にかけては原宿・VACANTで『BEACH』が上演されている。この2作品を観て印象に残ったことの一つは固有名詞の扱われかただ。

 『BOAT』において、登場人物は名前を持っていなかった。当日パンフレットを見ても、そこにはただ「余所者」や「除け者」、「待つひと」や「患うひと」、「看護師」や「灯台守」といった名前が記載されているだけだった。

 マーム作品において、ある時期までは――僕が観始めた頃だから、つまり2011年頃までの作品までは――登場人物には役名がついていた。だが、そのあたりから、登場人物の役名は本名であることが多くなり、舞台の冒頭で役者が――作品の中に登場する役としてではなく、役者自身が――名乗って作品を始めることもあった。そのことについて、過去のインタビューでこう語られている。

藤田 やっぱり、「役者はなぜ演じているのか?」という問題が僕の中で大きいんだと思います。その疑問から身体を酷使させて、フィジカルな部分に託していったこともあるわけですけど、「あなた自身として一回言ってみなよ」っていう場所に立たせたかったんです。あとは、よりライブに近づけたくて。今から語り出すのは誰なのか、観客の皆さんにも明確にして欲しかったんです。「役を演じている役者さんが話してくれるんだ」という安全圏にいて欲しくなかった。

 同じインタビューで、藤田は「酷いことを言っているように思われるかもしれないけど、『僕がほんとうのことを書こうとしてるのに、ほんとうのことじゃないみたいな感じで言わないで』っていうふうに、本気でわがままになったんだと思います」とも語っている。どうすれば「ほんとうのこと」を書けるのか――そのことを追い求めるにつれて、役名は消えてゆく。ある時期までは役者の本名がそのまま役名になっていたが、特に藤田が「新作」と形容する作品から人名は消えてゆく。先日上演された『BOAT』に人名が登場しないのもそれが大きな理由だろう。そこには人名が登場しないばかりか、それがどこの国であるのか、それがいつの時代であるのかも明確に提示されていなかった。ここ三年は特に、そうして寓話的な世界が描かれることが多かったように思う。どこでもないどこかを――そうであるがゆえに、どこにでもあてはまる世界を―—藤田は描こうとしてきた。

 その系譜から考えると、『BEACH』は異色の作品に映る。まず、それぞれの登場人物には「れんげ」「ほおづき」「よか」「つゆくさ」「くこ」「すずしろ」と名前がつけられている。つまり、この作品では一度手放していたものを、もう一度手にしているように思える。それは今年の春に上演された『めにみえない みみにしたい』にも共通する。『めにみえない みみにしたい』に出演した役者について、藤田はこう語っている。

この4人っていうのはレパートリー作品のメンバーだから、いくつも引き出しがあるんです。今回の作品であれば、稽古が始まった頃から「昔風にやろうと思う」と言ってたんですよ。昔はそういう言葉でやりとりするのは嫌だったんですけど、やっと武器みたいなものを共有できるようになってきて、今回の作品はメンバーじゃなきゃできないことをやれた気がして、それが嬉しかったですね。もちろんキャスティングで冒険していく企画もやっていくけど、マームらしいマームを観たい人だっているわけだし、『みえるわ』だって、あそこで初めて未映子さんの言葉を扱うんだとしたらできなかったツアーだと思うんです。そうやって培ってきたものがマームの中に生まれてきたときに、それをどう足し算したり引き算したりしながら作品のバランスを組んでいけるのか。そういうことを一緒に練れる人たちがいるのは幸福なことなんじゃないかって――それを今になって初めて気づいたっていうのは酷いなと思うんですけど――この一年でほんとに思ったんです。

 『めにみえない みみにしたい』も、今回の『BEACH』も、かつてマームとジプシーを論じるときに頻繁にキーワードとして語られた(しかしある時期からは封印されていた)リフレインであるとか、俳優と俳優とがジャンプするように入れ替わるステップが久しぶりに登場する。

 話を固有名詞に戻す。どこでもないどこかではなく、具体的な顔を持った土地を描く。そうした「回帰」は、新潟で出会った人たちとワークショップを重ねて上演された『mizugiwa』という作品にも共通するポイントだ。

 今から2年前の夏、2016年7月に京都で『A-S』が上演された。この作品は京都で出会った人たちと一緒に作った作品であり、『mizugiwa』と同じように、水辺にある町を描いた作品だ。その町には川が流れていて、登場人物たちは川べりを歩いている。それは、それが京都で上演されていることを考えると鴨川を想起させるし、その町で開催されているお祭りというのは祇園祭を想起させるのだが、そうした固有名詞は徹底的に排除されていた。それは、京都で見れば京都が舞台のように感じられるし、別の町で上演されればそれがまた別の町を描いた作品のようにも感じられる構造になっている。

 だが、『mizugiwa』には固有名詞が登場し、その作品ははっきりと新潟という土地に紐づけられている。新潟のB級グルメとして知られる「イタリアン」という言葉も出演者の口から語られる。そうして具体的に世界を、時代を描く――ここに『BOAT』以降、藤田が次に向かおうとしている方向が見える。ただ、そう考えたときに、固有名詞の扱いがどうしても気になってしまう。

 『BEACH』にも、いくつも固有名詞が登場する。女子たちが入った海の家(ではなかったかもしれない、VACANTで公演を観るときはハートランドの瓶を3本くらい買っておいて、それを片手に観ているのでメモが追いつかない)で、ソフトシェルクラブのなんとかだとか、バッファローなんとかだとか、そういった今時のメニューが登場する。あるいは、やや年少の「れんげ」が、私はパントリーを任されているのだと誇らしげに語ると、やや年長である「よか」は「パントリー?」とピンと来ていない様子だ。あるいは、バーベキューの準備をしているところで、いつだか飲んだサングリアが絶品だったと語られて、作りかたがとても具体的に語られる。その語りが具体的かつ饒舌であればあるほど、その台詞を書いている人はさほど興味を抱いていないように聴こえてしまう。

 作品世界に固有名詞が持ち出され、細部がとても具体的に語られるとして、作者がその対象に愛着を持つ必要があるかどうか――その問題については意見が分かれるだろうけれど、僕は必ずしも愛着を持つ必要はないと思う。サングリア作りの工程が仔細に語られるからといって、作者がサングリアを好きで、サングリア作りに多大なる関心を持っている必要はないだろう。では、なぜ僕はサングリアのことを語る場面が――いや、固有名詞が散りばめられている多くのシーンが――引っかかってしまったのだろう。それは、そのディティールが『BEACH』という作品世界において必要不可欠であるというふうにまで感じられなかったからだと思う。そうしたディティールは、「こういう女子っているよね」という、ざっくりした言葉でいうと“あるある”的に人物像を描くために用いられているように感じてしまった。

 『BEACH』という作品は、都会ではなく、海辺にある地方都市が舞台であるようだ(そしてその意味では『BOAT』に通じるものがあり、旅行者としてこの町を訪れた「ほおづき」が、この町で生まれ育った「くこ」と出会ってしばらく言葉を交わしたのちに「それで、どなたですか?」と質問されるところも共通する。この町では雑踏に紛れて誰でもない誰かでいることはできず、ストレンジャーは異質な存在に映る)。

 この町に暮らす「つゆくさ」という女性は、地元ではちょっとしたあこがれの的のようである。彼女は海辺に佇んで、犬を散歩させている。犬の種類はボルゾイで(これもメモをしそびれているがたしかボルゾイだったはずだ)、名前は「チル」。彼女の家ではこれまで何匹も犬を飼ってきたが、名前は決まって「チル」で、それぞれの犬は「×代目のチル」になる。そして彼女は犬を放し飼いにしており、「もうあれだからね、首輪かけないからね、うち」と彼女は語る。こうした人物像は、ある種のステレオタイプだ。そこで具体的に語られなくとも、彼女の家にどれぐらい経済力があり、どういう文化の中で育ってきたのかということが暗示される(どうでもいいことだけど――「つゆくさ」の妹「くこ」は、初代の「チル」の記憶がないと語る。もし彼女が二十五歳だと仮定すると、二十五年以上前にこの家では犬に「チル」という名前をつけたということになる。1990年くらいに「チル」という単語に馴染みがあるというのは、かなりアメリカン・カルチャーに――しかも若者のカルチャーに――造形の深い両親だ)。

 あるいは、この町にいる「すずしろ」という男は、今年33歳になるが、いまはサーフィンにはまっているようだ。「波ってそういうことだから。同じ波とかないから」。そう語る「すずしろ」は、結構イタいやつとして描かれるのだが、その人物造形はあまりにもステレオタイプではないかと感じる。「あるある」的ではないかと感じる。一体なぜそのような人物設計が必要とされているのだろう?――それを考える上で比較してみたいのは、『あっこのはなし』だ。あの作品の登場人物たちもまた、ある意味では「あるある」的だ。登場人物たちは30代を迎えて、地方都市で、日々小さな迷いやもやもやを抱えながらも暮らしている。その姿には、どこかその役を演じている彼ら自身の姿も重ねられていて、そこに登場するエピソードのいくつかは彼らが実際に体験したものが散りばめられている。30代を迎えた自分たちの現在の姿を描く―—作品に登場する「あるある」は、そうしたリアリティを支えるものでもある。

 それに比べると、『BEACH』に登場する「あるある」は、それを演じる俳優自身と深く結びついているわけでもない(ように感じる)。それは、斎藤章子という俳優(あっこ)を主人公とする『あっこのはなし』が私小説的であるのに対して、『BEACH』は決して私小説というわけではなく、フィクションとして物語を描こうとしているからだろう(ただ、だからこそ、「すずしろ」が語る、父親に密猟させられていたというエピソードのリアリティの強さが浮き立って感じられる)。であるならば、その「あるある」を、観客である私たちはどのように受け止めればよいのだろう?

 そこが気になってしまうのは、『mizugiwa』にしても『BEACH』にしても、そこで登場する固有名詞や登場人物たちの造形とは別のところで結ばれていくように見えるからだ。登場人物たちが会話を乱反射させていくなかで、ところどころで楔のようにモノローグが差し込まれる。「私が絶対に選ばないようなことを、選ぶ人がいる」「私たちは、退屈を持て余している」。これらのモノローグはとても鮮烈だ。藤田貴大という演劇作家は、こうした言葉を誰より鮮やかに描き、誰より鮮やかに演出する。その才能は本当に稀有なものだと思う。どの作品にも鮮やかなモノローグがあり、それによって作品が成立している。ただ、逆に言ってしまえば、その部分さえあれば作品が成立してしまっている。

 『BOAT』が終わってまだ1ヶ月強しか経っていないにもかかわらず、二つの作品が上演できているのは、鮮やかなモノローグがあればこそだ。それが書ける限り、毎月2本ずつでも作品を発表し続けることは可能だろう。実際、ここ数年、マームとジプシーは驚異的なペースで作品を作り続けている。ただ、なぜこんなにも作品を作り続ける必要があるのかという疑問を、『mizugiwa』と『BEACH』を観たことで初めて感じてしまった。

 先日、マームとジプシーのウェブサイトはリニューアルされた。そこには「メンバー」として俳優の名前が書きしるされている。通常の劇団であればごく普通のことだが、マームとジプシーは劇団ではないのだと藤田はことあるごとに語ってきたことを考えると、これは大きな変化と言えるだろう。そのことについて藤田は、「メンバーとして名前を連ねているのであれば、何か保証されたものが必要だよねってことを制作とは話してますけど、それを今すぐ15人に対して実行する力はないから、どういうふうに形にしていけるかってことは考えているところです」と語っていた。「食っていけるかどうか」という問題は、ややもすると二の次にされかねない問題だが、活動を続ける上でとても大事なポイントだ。だから、もしこの頻度で作品を発表し続けることで食っていくことに繋がるのであれば、それはとてもよいことだと思う。でも、たとえば『BEACH』があることで皆が食っていけるわけでもないだろうし、食っていくということを主眼に据えるのであれば、リニューアルにあわせて「レパートリー」としてウェブサイトに掲載されることになった作品たちをいろんな土地で上演することのほうが近道だろう。

 話が逸れてしまった。

 『BEACH』がどうしても引っかかるのは、モノローグが鮮やかであるのに比べて、人物の造形が「あるある」的であることだ。その「あるある」がどこまでエッジの効いたものであるのかも疑問が残る。その点について考えるときにも、やはりこの頻度で公演を打ち続けていることを考えざるを得ない。

 これだけ切れ目なく活動しているということは、ほとんどの時間を稽古場と劇場の中で過ごすことになる。そうすると、今、この時代に、街の片隅に存在するリアリティをどこまで観察する余裕があるのだろうかと考えてしまう。そんな心配は余計なお世話だというのは重々承知であるのだけれど、『BEACH』という作品の中に登場する、「人は鳥になり得たのだろうか。なんで、歩くことを――?」というモノローグを耳にした瞬間に、そんな余計な心配を浮かべてしまう。その言葉(に限らず、いくつかのモノローグ)は、この先に上演される『書を捨てよ町へ出よう』を――人力飛行機でここではないどこかへ飛び出そうとした「私」を――想起させるからだ。

 『BEACH』という作品に登場する「つゆくさ」は、町を、生まれ育ったその町を出て行こうとしている。町を出るという構図は、藤田作品で繰り返し描かれてきたものだ。ただ、その「町」は、具体的に地名が出ようと出まいと、藤田自身が生まれ育った町をモチーフとして描かれてきた。それに比べて、『BEACH』というのは、『BOAT』と違って、具体的な顔を持ったどこかの町が想定されているものの、彼の郷里とは違う、どこかの町を描こうとしているように見える。そこで彼が描こうとしているのは、いまという時代だろう。

 だとすれば、「つゆくさ」はなぜこの町を出ていくのか。そこに何を見るのかはとても大きなポイントになるはずだ。

 舞台の終盤で、「つゆくさ」は夫と離婚したことが明かされる。そこで彼女に何が怒ったのかは具体的に語られることはないけれど、その「傷」が大きく横たわっているのだと仄めかされる。その「傷」に何を見るのか。寺山修司は――いや、寺山修司に限らず、たとえば50年前の騒がしい時代を生きた作家や文学者たちは――わたし(たち)が、わたし(たち)が生きている時代というものが抱えている「傷」とは何であるのかを探り当てようとしてきた。そのことを思うと、『BEACH』に少し物足りなさを感じてしまう。

 繰り返すが、『BEACH』がつまらなかったと言いたいわけではない。藤田貴大という演劇作家がここ最近は「時代」という言葉を口にすることを思うと、ひとつひとつの作品を観た観客の世界像を揺さぶり、ひいては世界を変える作品であって欲しいと思う。

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