感想

 豊橋を訪れるのはいつぶりだろう。駅についてすぐ「勢川」(本店)を訪れて、うどんが運ばれてくるのを待ちながら、思い返してみる。前に豊橋を訪れたのは、去年の春、豊田市美術館で悪魔のしるし『百人斬り』を観たあとのことだ。その帰りに豊橋に立ち寄り、「みかわ家」で焼き鳥を食べたおぼえがある。ここの焼き鳥は串で出てくるのではなく、焼き肉のように焼き台で焼くスタイルだ。マームとジプシーによる『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』が2017年春に上演されたときも、「みかわ家」で打ち上げが開催されたことを思い出す。

 今回豊橋を訪れたのは、『CITY』(作・演出=藤田貴大)を観るためだ。彩の国さいたま芸術劇場で『CITY』の初日を観たときに、僕はうまく感想を紡ぐことができなかった。彩の国での最終公演を見届けてもまだ言葉にならず、穂の国とよはし芸術劇場で上演される大千秋楽を見届けにきたのだ。

『CITY』という作品でモチーフになるのは「ヒーロー」である。ヒーローは、窮地に立たされている誰かのもとに駆けつけ、颯爽と救い出す。つまり、ここではないどこかで助けを求めている誰かの声を聴くことができる。姿を見ることができる。『CITY』の主人公である「ぼく/おれ」(柳楽優弥)もまた、見ることが、聴くことができる存在だ。舞台の序盤で、「ぼく」は「獣医」(船津健太)とこんな言葉を交わす。

「きのうから、ぼく、あたらしいアルバイト始めたんですけど、さっそくみえてしまったんですよ。きこえてしまったんですよ」
「ああ、いつものやつね」
「そう、いつものやつ」

 彼は顔を隠された女性がどこかへ連れていかれる姿を「みる」。この街では、しばらく前から事件が起きているらしかった。共通するのは、被害者である女性の右腕が切り落とされていることで、半径1キロもいかない狭い範囲のビルの屋上で事件が起こり続けていた。その犯人というのが、『CITY』における「ヒーロー」が対峙する悪である。この悪に手を染める登場人物は複層的に描かれており、ヴィランとして配置されるのは「コレクター」(内田健司)と「あのひと」(井之脇海)である。そして、どうやらこの街で最初に事件を起こし始めたのは「コレクター」であるらしく、どうして彼が事件を起こすに至ったのかはチャプター4で語られる。


 モノローグの中で、「コレクター」は幼い頃に母親から「しつけ」を受けていたことを語り出す。どうやら彼は性的虐待を受けていたらしく、母親はいつも右手で「しつけ」をしていたのだと語る。彼はある日、母の右腕を切り落とす。それをきっかけに彼は母によって支配された実家を飛び出し、上京を果たす。そして「コレクター」となり、女性の右腕を切り落としてはコレクションしているのだった。

「コレクター」が行った行為は紛れもなく犯罪であり、許されざる行為ではある。ただ、そこに至るまで何か手立てはなかったのかと誰もが思うだろう。彼に対する虐待を初期の段階で誰かが「みる」ことができていて、止めに入ることができれば、彼は母殺しをする必要もなかったであろうし、女性の右腕に偏執し「コレクター」となることもなかっただろう。彼は、世界から見えない存在とされており、彼に対する母親の行為は誰にも止められることがなかった。彼のように見過ごされている誰かは、世界のいたるところに存在してしまっている。

 この世界にはいくつも壁が存在し、風景は膜に覆われている。これは国際情勢の話なんてお大げさな話を持ち出すまでもなく、隣の部屋で何が起きているかだって見通すことはできない。『CITY』のチャプター1では、動物病院で「ぼく/おれ」が「刑事A」(佐々木美奈)と居合わせるシーンが描かれるが、そこで「刑事A」は、飼い犬が白内障を患っていることを語る。白内障は「白いレースのカーテンが、目を覆っているかんじらしくって、そのカーテンの隙間から世界を見ているような」状態にあるのだ、と。白内障の犬に限らず、わたしたちは世界をそのようにしかみることができない。

『CITY』では縦横無尽に舞台上をパネルが動きまわり、観客は常にパネルに遮られた世界しか見ることができないけれど、観劇中に限らず、わたしたちは限られた世界しか目にすることができない。そんな中で、例外的に「みる」ことができる存在として「ヒーロー」が描かれている。


「みる」ということは、とても大切なことだ。

 今回の『CITY』を観劇するにあたり、僕は以前から薦められていたマーベル作品を一通り観た。『アイアンマン』以降のマーベル・シネマティック・ユニバースを(5月の段階では観る手段のなかった『キャプテン・マーベル』を除き)すべて観て、さらにお薦めされたシャマラン監督の『アンブレイカブル』と『スプリット』と『ミスター・ガラス』もDVDで観た(この「感想」の中には、これらの作品の「ネタバレ」が含まれる)。それを通じて感じたことはいくつもあるけれど、ひとつには正しく「みる」ということの大切さだ。いま真っ先に思い浮かんだのは、『マイティ・ソー バトルロイヤル』のことだ。この作品の中では、アスガルドの歴史が書き換えられていたことが明らかになる。そこで伏せられた存在とされ、異次元に幽閉されていた死の女神・ヘラによって、アスガルドには混乱がもたらされることになる。あるいは、『ブラックパンサー』では、ワカンダの国王であったティ・チャカは、弟にあたるエヌジョブを殺害する。その事実は歴史に記述されず、伏せられてきたが、エヌジョブの息子エリック・スティーブンスは「復讐」のためにワカンダに姿をあらわす。そうしてなかったことにされた人たちは、いずれ「復讐」を志す。そんな結果を引き起こさないためにも、歴史は正しく記述される必要がある。

 話が大きくなってしまった。マーベル作品で感じた「みる」ことの大切さというのは、最新作にあたる『アベンジャーズ/エンドゲーム』を観ているときにも感じたことだ。過去のアスガルドを訪れたソーは、今は亡き王妃・フリッガと再会する。すべてを悟ったフリッガは、人は誰しも理想と現実とのあいだで苦悩する、大切なのはありのままの自分を受け入れることだと優しく語りかける。このシーンを観ているあいだ、頭の中に「シー・モア・グラース」という言葉が頭に浮かんでいた。いうまでもなくサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」に登場するフレーズである。それは「シーモア・グラース」という登場人物の名前でもあり、シーモアと同じホテルに宿泊している小さな女の子・シビルは「もっと鏡を見て」(シー・モア・グラース)と口癖のように繰り返す。だが、シーモアは「もっと鏡を見」ることなく、自ら命を絶ってしまう。

 シーモア・グラースは、どうやら兵役帰りであるようだ。そして、戦場で傷を負ってしまったらしかった。妻のミュリエルは、シーモアがビーチでバスローブを脱がずに過ごしていることを電話で母に語り、「阿呆な奴らに刺青見られたくないんだって」とその理由を説明している。この刺青は文字通りの意味ではなく、戦場で負ってしまった傷を意味するものだろう。あるいは、シビルと別れたあとにエレベーターに乗り込んだシーモアは、一緒に乗り合わせた女性に「僕の足を見てますね」と絡む。彼の足に傷があるかどうかはわからないが、自分の傷に視線が注がれていることに意識が過剰に働いていることは間違いないだろう。そんな彼にとって、「もっと鏡を見て」という言葉は、簡単には受け入れられないものである。


 鏡というモチーフは、『アンブレイカブル』にも象徴的に描かれている。

 映画は百貨店でイライジャが生まれるシーンから始まるが、試着室だろうか、鏡越しに映像は映し出されている。あるいは、些細なことでも骨折してしまう骨形成不全症として生まれてきたイライジャ少年に、「いつまでも家の中にいてはだめよ」と語りかける場面は、スイッチの消えたテレビ画面に映る二人の姿として撮影されている。また骨折してしまうから外に出たくないと語るイライジャに、「神様がお与えになった運命よ」「逃れることはできないわ」と母親が語るシーンがこうして撮影されていることは、『ミスター・ガラス』まで観終えた今となっては印象深くある。その姿は、鏡に映し出されるのではなく、スイッチの消えたテレビ画面に映し出される。それは鏡のようでもあるけれど、鏡ではなく、テレビ画面である。このシーンの直後にコミックをプレゼントされたイライジャは、その世界に没頭してゆく。そして自分の存在理由を見出そうとして、大惨事を巻き起こす。その大惨事を巻き起こしたのがイライジャだと悟ったデヴィッドに、イライジャはこう語りかける。

「最大の恐怖は何だと思う? 自分の居場所や存在理由がわからないこと。それは耐えがたく恐ろしい。希望を捨てかけていた。生きる目的を何度も自問した。だが、お前を見つけた。あまりにも多くの人間を犠牲にした。お前を見つけるために。お前の真の姿がわかった。私が何者なのかも。私のこの体にもすべて意味がある。コミックではどんな奴が最大の敵になる? ヒーローとは正反対の人間だよ」

 ここで「自分の居場所」や「存在理由」について語られているけれど、イライジャに限らず、誰にも「自分の居場所」や「存在理由」など存在しない。わたしたちはその空白を受け入れるほかない。イライジャが骨形成不全症として生まれたことも、それとは対照的にデヴィッドが“アンブレイカブル”な身体を持って生まれてきたことも、他の多くの人たちがそのいずれでもない身体として生まれついたことと同様に、意味など存在しない。その意味のなさを引き受けるしか――自分自身の姿を鏡でよく「みる」しかない。でも、そこに意味を見出そうとするイライジャは、鏡ではなくテレビ画面越しに佇んでいる。そんな彼に向かって、「もっと鏡を見て」というのは、とても難しいことでもある。


 『CITY』に話を戻す。『CITY』においては、「みる」ということが絶対的に正しいこととしてではなく、諸刃の剣のように描かれる(これは藤田作品において新しい点であるように思われる)。

 「コレクター」は母から「しつけ」をされていた。それは性的虐待であることが仄めかされる。そんな彼に「もっと鏡を見て」と、自分自身の過去を受け入れろというのは困難なことである。この日記を書いている今日、オランダの17歳の少女が11歳のときに性的虐待を受け、3年後にはレイプの被害に遭い、その「耐え難い苦痛」から解放されるために安楽死を希望し、それが認められて亡くなったというニュースが報じられた。それが安楽死だったというのは誤報だったけれど、彼女が死んでしまったことには変わりがなく、飲食を絶って衰弱死したのだ。彼女は「私は呼吸していますが、もはや生きてはいません」「これは良くないことだと、私を説得しようと試みることはやめてください」と語っていたという。彼女に対して「もっと鏡を見て」、生きていこうと語りかけるのは暴力である。

 幼い日の「コレクター」は、母親に「しつけ」をされているあいだ、ずっと目を閉じていた。何が起こっているのかわからないふりをして、目を閉じていた。だがある夜、母は「目をあけろ」と息子に告げる。「さいごのさいごまで、わたしをみていろ」「それでも目をとじるなら、まぶたを切ってやる」と。ここでも「みる」ことの負の側面が描かれている。わたしたちの生きる世界では、ありとあらゆる悲劇が起きてしまってきたし、日々起こり続けている。

「すべてあり得ることなんだよ」と語るのは、もうひとりのヴィランにあたる「あのひと」だ。「あり得ないことなんてない。なんだってあり得てきたじゃないか、この世界では。どんな悲劇だって痛みが伴う。ありとあらゆることも。なにが起こったって、おかしいことじゃない」

 そう語りかけられている主人公の「ぼく/おれ」は、親に捨てられた過去がある。彼の母親は、まだ小学校に上がったばかりの「ぼく/おれ」とその妹を高架下に置き去りにして、姿を消した。妹はまだ生まれたばかりで、まだ名前もつけられていなかった。置き去りにされたふたりは施設に預けられ、そこで育った。「ぼく/おれ」の「幼なじみ」(宮沢氷魚)も、いつも同じベンチに座って過ごしている「やどなし」(菊池明明)も、同じ施設の出身だ。その施設に預けられている子供達は「特別な『なにか』を持っているコドモたち」とされ、大人達は「『なにか』を引き出そうと必死だった」と回想される。この設定からはカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を想起させられる。『わたしを離さないで』が日本で舞台化されたとき、演出を務めたのは蜷川幸雄で、彩の国さいたま芸術劇場大ホールで上演されている。蜷川幸雄が演出した作品が幾度となく上演されてきたこの大ホールで、藤田貴大が初めて自らの作品を上演し、その作品の中に『わたしを離さないで』を想起させる設定があるというのは、感慨深くもある(藤田が蜷川に取材を重ね、蜷川幸雄の半生を元に執筆した戯曲『蜷の綿』は、今秋のリーディング公演が決定している)。

 その施設に預けられている子供達はなぜ「特別な『なにか』を持っているコドモたち」となったのだろう。その子供達は何らかの理由で親元を離れており、「じぶんの誕生日を知らない子なんてふつうにいた」という。ごく素直に受け取れば、そうした過去の経験が「特別な『なにか』」に結びついていると考えるのが自然だろう。

 そこで思い出されるのが、先ほど触れた、『アンブレイカブル』に登場するイライジャだ。自分が骨形成不全症として生まれてきたことの意味を求めるあまり、彼はヴィランとなる。『ミスター・ガラス』では、イライジャ、デイヴィッド、それにケビンの三人の前に、エリー・ステイブルという精神科医があらわれる。エリーは、三人が実際に特別な力を持っているわけではなく、「自分は超人である」という思い込みが必要になるような過去の記憶があり、その記憶によって妄想が生まれたのだと説く。そしてケビンは前頭葉に処置を施し、彼らの記憶と思い込みを取り除こうとする。

 あるいは、『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』の冒頭で、トニー・スタークはMITである研究のプレゼンテーションを行なっている。それは自分の記憶を再構築するテクノロジーである。自分の中で引っかかり続けている過去の記憶があるとしても、その記憶を再構築して上書きすることができれば、過去から解放されることができる――。それと同じことを、『CITY』に登場する「あのひと」は「ぼく/おれ」に語りかける。

「そういう過去のことは、もう忘れていい。縛られていなくていい。ぼくといっしょに、都市をつくらないか。あたらしい都市を。あたらしい秩序を。きみとぼくならかならず達成するよ。こんなゴミ溜めのような世界を、いちど壊してさあ」

「あのひと」の台詞にあるように、この世界ではありとあらゆる悲劇が繰り返されてきた。歴史に記録されることのなかった小さな悲劇を含めれば、数え切れないほどの数の悲劇が存在してきたのだろう。つまり、その悲劇の被害者となった人や、その遺族が溢れているということだ。

 『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』の冒頭で、記憶を再構築するテクノロジーをプレゼンしたトニー・スタークは、ステージを降りると、ひとりの女性と出くわす。彼女は子供をソコヴィアで亡くしており、それはアベンジャーズ達が(地球を守るために起こした)ソコヴィアでの戦闘に巻き込まれたことが原因だったのである。アベンジャーズは、言うまでもなく「復讐」(avenge)が元となっているけれど、アベンジャーズの戦いも誰かに復讐心を抱かせてしまっている。


 起こしてしまったことは、もう取り返しがつかない。死んでしまった人が生き返ることもなければ、壊れてしまったものが元通りになることもない。ふいに口にした言葉も、本人が忘れてしまったとしても、言われた誰かの中に刺さり続けていることだってありうる。『CITY』では、犯行の瞬間を「憶えていない」と繰り返す作業員A(尾野島慎太朗)に、強い調子でこう語る。

「ふーん、憶えていない。憶えていないだなんて、なんの言い訳にもなんねーんだよ、カスが! おまえが憶えてなくても、まわりが憶えていたなら、それは「憶えている」ということになるんだよ! つまり事実は消えない。憶えていないだなんていうことで、もみ消せるわけがない。だれかはかならず『憶えている』からな! つまり、わたしは、たとえば飲みの席で、飲みすぎて翌日、なにをしたか『憶えていない』んだよね、とか言うやついるだろ。あれもぜったいに許さないぞ。おまえがかけた迷惑のすべてを、まわりは『憶えている』からな。ということは、それは『憶えている』ということになるんだよ!」

 消せない事実を前に、人は何をすればよいのだろう。

 『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』に登場するワンダとピエトロという兄妹もまた、アベンジャーズに復讐心を抱いていた。二人はソコヴィア出身だが、幼い日に自宅に着弾した砲弾により両親を失っている。続けて着弾した砲弾は不発だったけれど、いつ爆発するかと怯えながら過ごした記憶を持っている。その砲弾には「スターク・インダストリーズ」の名前が記されていた。兄妹はトニー・スタークに復讐心を抱いており、人体実験により手に入れた特殊能力でアベンジャーズの前に立ちはだかる。兄弟の能力は超人的で、ふたりがアベンジャーズと敵対したままであれば地球は滅んでしまっていただろう。だが、ふたりはウルトロンが人類を滅亡させてしまおうと考えているのだと知ると、ウルトロンと袂を分かち、人々を救い始める。

 兄妹は復讐に燃えながらも、確固たる良心がある。ふたりはそこで思いとどまったけれど、もしも「こんな世界は滅んでしまえ」と思っていたとすれば、どうなっていただろう。自分自身の家族を、生活を破壊されてしまって、「こんな世界は滅んでしまえ」と思わずにいられるだろうか。マーベル作品では家族や恋人の存在が色濃く描かれているけれど、『エイジ・オブ・ウルトロン』では特に家族の存在が際立っており、ホークアイに家族がいたことが明らかになる。アベンジャーズがホークアイの家に集まって話が進められており、世界を守るために戦いに臨むことと、守られるべき平穏な日常がごろりと対置される。だからこそ、そんな場所を持ち得なかった人のことが気になってしまう。

 『CITY』の主人公である「ぼく/おれ」も、そんな場所を持ち得なかったひとりだ(彼が妹と言葉を交わす場面は幾度となくリフレインされるが、「帰るぞ」と声をかけた妹から「どこへ?」と問いかけられ、「ほら、こたえられないじゃん」と指摘されてしまう)。まだ生まれたばかりだった妹とは異なり、小学生だった「ぼく/おれ」は、帰るべき場所を失ってしまった理由を知っている。親に捨てられた日のことを憶えている。その記憶は、彼の人生に大きな影を落としている。

「あのひと」にどんなバックボーンがあるのか、劇中ではあきらかにされないけれど、この世界にうんざりしていることは間違いないようだ。あらためて、「あのひと」は「ぼく/おれ」に語りかける台詞を引用してみる。

「そういう過去のことは、もう忘れていい。縛られていなくていい。ぼくといっしょに、都市をつくらないか。あたらしい都市を。あたらしい秩序を。きみとぼくならかならず達成するよ。こんなゴミ溜めのような世界を、いちど壊してさあ」

 この提案に対して、「ぼく/おれ」は「うるせー」と一蹴する。そして「おれはひとりでやるよ、クソが」と口にして、この場面は終わり、スクリーンには「半年後」と表示される。そこはどうやらレストランであるらしく、「ぼく/おれ」のために集まった男たちが待ち構えている。実際には「ひとりでやる」のではなく、「仲間たちとやる」ことになったようであるらしかった。彼は、あくまでも刑事に任せるのではなく、自分たちで街を救おうと動いている。チャプター5で刑事たちと対面したとき、「なんのためにこんなことしているのかわからないけど、はやくわたしたちに任せなさい」と告げられた「ぼく/おれ」は、こう反論している。

「任せられないから動いてんだよ。いつ、だれが動いた? 動いていたんだとしても、じゃあ、どうして町はこんなことになっている? ただしさは、みえるか? みえているか?」
「じゃあ、このやりかたがただしさだって言うの?」
「でも、おれにはみえてるよ。きこえているし。とにかく、あんたらじゃ遅い。待ってられない」

 初日に『CITY』を観たときから、このシーンのことが気にかかっていた。そこにはある弱さがあるように感じられた。マーベル作品をひとしきり観たあと、『シン・ゴジラ』を観返してみて、改めてそのことを思った。『シン・ゴジラ』にも、矢口蘭堂という主人公が存在する。ただ、彼ひとりが強烈なリーダーシップを発揮して問題を解決するわけではなく、横紙破りをすることもなく、徹底的に「手続き」を重視して事が進んでいく。現実世界を動かすために重要なのはこの「手続き」である。政治の世界でも、身近な世界でも、少しずつ「手続き」を積み上げていくことでしか物事を動かすことは不可能だろう。

 そこで思い出されるのも『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』である。キャプテン・アメリカは、爆破テロの犯人と誤解されているかつての親友・バッキーを助け、バッキーに罪を被せて何かを画策している男を追い詰めようと行動に出る。ただ、キャプテンは単独行動に走るあまり、アベンジャーズの「内戦」を引き起こしてしまう。もしもキャプテンがきちんと情報を共有し、説得し、「手続き」を踏んでいれば「内戦」は起こらなかっただろう。そんな時間と余裕はなかったのだろうけれど、『ウルトロン』ではフューリーに対して「どうして仲間に隠し事をするのか」と言っていたキャプテンがなぜ、と思ってしまう。

 ところで、この文章は何日もかけて書いているのだけれど、ここを書いている今は6月13日である。豊橋で千秋楽を見届けて10日が経過している。この10日間にも、やるせないニュースが次々報じられた。その一つは、札幌で虐待を受けた2歳の子供が亡くなったというものだ。こういうニュースに触れるたびに、どうにかして助けることはできなかったのかと思う。でも、今この瞬間に虐待を受けている子供がいたとして、そしてそれを「みる」能力が備わっているとしても、いきなり壁をぶち破って救い出すわけにはいかない。どのように子供を救い出すことが正しいのか、救い出したあとはどのように対処するのが正しいのか、そこには熟慮が重ねられる必要がある。そのシステムのいかに構築するかが重要なのだと考えたときに、「ぼく/ おれ」の言葉は、どうしても幼く響いてしまう。それは、『CITY』という作品が緻密なルール設計に基づいて上演されていることとも対照的に感じられる。

『CITY』では、すでに述べたように、パネルが縦横無尽にうごきまわる。演出部のスタッフのみならず、俳優も一緒にパネルを動かし続けている。藤田作品では舞台上をパネルやフレームが目まぐるしく動き回ることは珍しくないけれど、今回の作品は極点と言ってよいレベルに達している。当日パンフレットを見ると、舞台監督に大畑豪次郎、舞台部に森山香緒梨、丸山賢一、熊木進、圓佛浩樹の名前がクレジットされている。この舞台部に名前を連ねている森山と熊木は、過去の藤田作品で舞台監督を担ったこともあるスタッフである。そのスタッフを投入して上演されている『CITY』は、言葉はよくないけれど、総動員といっていいレベルで上演されていると言える。繰り返しになるけれど、そこまで緻密にシステム化されている作品において、「ぼく/おれ」の言葉は少し浮いて感じられる。

 ただ、そこまで考えてみたときに、はっきり見えてくるものがある。それは、『CITY』という作品が、あるいは藤田貴大という演劇作家が描こうとしているものは何であるのか、ということだ。この作品を通じて提示されているのは、「このようなシステムが必要だ」と、現実世界に対する直接的な処方箋」ではなく、もっと別なことにある。

 システムが高度に設計されればされるほど、重要なのはシステムを滞りなく運用することになり、ひとりひとりの判断が問われる領域は減っていくだろう。極限までシステムが張り巡らされた世界で、人間に残される領域は何であるのか。その問いに対する答えは何通りもあるだろうけれど、この作品で提示される一つの答えは、記憶であり過去である。

『CITY』では、「ぼく/おれ」が過去を思い出すシーンが何度か登場する。思い出しているのは、今は姿を消してしまったのだと思われる妹のことであり、ごくささやかな、とるにたらない場面のことを思い返している。それは、いつだかの部屋のことで、兄が帰宅すると、部屋では妹がダンスを踊っていた。

「ただいま」
「おかえり」
「それなにやってんの?」
「え、みりゃわかるでしょ」
「や、わかんないよ。なんなの、その動きは」
「や、ダンスでしょ」
「は?」
「や、ダンスでしょ」
「ああ、そうなのね」
「ダンスって、いま流行ってんだよ」
「いまとかじゃなくない? いつだって流行ってんじゃないの? ダンスって」
「タピオカ買ってさあ、駅に集まって、ミラーのまえでみんなでダンスするのが流行ってんだよ」
「ミラーじゃないよ、それ。窓だよ、たぶん」

 ここに登場する音楽とダンスは、観客からすると、ささやかな日常を象徴するもののように感じられる。あるいは、そこからは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のことも思い出される。同作の主人公にあたるクイルは、カセットテープとウォークマンを大切に持ち歩いている。カセットテープに収録されているのは母がよく聴いていた曲で、そのカセットテープとウォークマンは母が死んだ日――それはクイルが地球を去った日でもある――にたまたま手にしていたものだ。音楽を聴くという文化のない環境に生まれ育ったガモーラに、クイルはその大切さを説明している。

「何に使うの?」
「ただ曲を聴いたり、踊ったり」
「私は戦士、暗殺者よ。踊らない」
「本当に?」
「俺の星には、ある有名な伝説がある。“フットルース”というんだ。偉大なヒーロー、ケヴィン・ベーコンが、ダンスを禁じた尻の穴の小さな大人たちと戦う。最高だろ?」

 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では、ウォークマンを取り上げられたクイルが憤り、「That song belongs to me!」と怒るシーンも描かれる。この曲は俺のものだと言いたくなるほど、記憶の詰まった音楽というものがある。そこには、他の人からすればとるにたらない日常かもしれないけれど、本人にとってはかけがえのない時間が詰まっている――こう書いていて思い出されるのが『cocoon』だ。

 ここ数日、久しぶりに『cocoon on stage』を――2013年にマームとジプシーによって『cocoon』が舞台化されたときの上演台本が掲載されたこの本を――手に取り、読み返していた。舞台の序盤にはこんな場面が登場する。それは「さとこ」がギターを練習している場面だ。音楽室で先生が語っていたことと、聡子の台詞とが、折り重なるようにリフレインされる。

先生 歌をうたうって、、、素晴らしいことだから、、、
(さとこ 先生、、、あの、、、)
   つらいとき、、、かなしいとき、、、さみしいとき、、、
(さとこ 音楽も、、、なくなるって、、、)
   きっと、、、糧になるのが、、、歌だから、、、
(さとこ 音楽も、、、なくなるって、、、ほんとうですか、、、)
   歌は、、、みなさんを、、、裏切りませんよ、、、
(さとこ 音楽も、、、なくなるって、、、)
   先生も、、、なんど、、、歌に助けられたことか、、、
(さとこ 音楽もなくなるってほんとうですか、、、
先生 うーん、まだなんとも言えないけど、、、)
さとこ そっか、、)

 ここでは音楽は、戦争という「悲劇」によって奪われてしまうかけがえのない日常を象徴している。音楽というものは、このようなイメージをまといやすいところがある。ただ、音楽は「かけがえのない日常」側の占有物ではない。つまり、音楽は戦争によって日常を奪われた彼女たちのそばにだけあるものではなく、それを奪った側にも軍歌があり、彼女たちを撃った兵士にも思い出深い歌があるだろう。さらに連想を広げていくと、『スプリット』で女の子たちを拉致した男は23の人格を有しているけれど、そのうちのひとり・ヘドウィグは音楽が好きな9歳児だ。彼は拉致されているケーシーに向かって、「ダンスが好き、君は?」と語りかける。「部屋でCDをかけて踊るんだ。カニエ・ウェストで。CDプレイヤーは窓辺に置いてある」と。

 拉致された女の子が「部屋でカニエ・ウェストを聴きながらダンスを踊るのが好きだった」となれば、その音楽とダンスはかけがえのない日常を象徴するものとして受け止められる。だが、拉致をした犯人が「部屋でカニエ・ウェストを聴きながらダンスを踊るのが好きだった」と語ればどう受け止められるだろうか? わたしたちの暮らす社会では、何かの事件が起きるたび、容疑者の自宅に何が置かれていて、何を好んでいたのかということが報じられる。そこにはある線引きがある。社会における「普通」の範囲にとどまらないもの、「普通」の秩序を乱しかねないものは、守られるべき日常として扱われることなく、白い目を向けられることになる。少し前にテレビで語られた「不良品」という言葉も、それを象徴しているように感じられる。何かの拍子につまずいてしまって、自宅で過ごしている人たちは社会における「普通」とは異なると看做され、「不良品」のレッテルを貼られてしまう。わたしたちは、日常を滞りなく続けるために境界線を引き、何よりも守られるべき日常を乱しそうなものを敵視する傾向にある。そういった感情というのは、こうして文章を書いている僕自身の中にも存在している。たとえば、『CITY』では、作業員Aがこんなことを口走る。

「電車を乗り継いで30分、退屈だ。目のまえで横はいりしてきたやつ、なんとなくだけど殴りてー。ホームにでたとき、流れにさからって歩いてきたやつ、一発殴って突き飛ばしてー。改札でたとき、ふと目が合ったやつ、殴りてー。いちどでいいから、そいつの顔がなくなるくらい殴ってみてー。理由なんてない。あるとするなら、退屈、退屈だ。退屈からか、そいつの顔がなくなるくらい殴ってみました。立派な理由だろう、退屈、退屈」

 殴りたいと思うかを別にすれば、ここで語られるいくつかの感情を、僕も抱くことがある。進行方向が区分けされている駅の階段で、逆走するように歩いてくる人間には敵意を抱いてしまうし、酔っ払って駅前にたむろして道路を塞いでいる集団を見ても敵意を抱いてしまう。その敵意の源泉がどこにあるのかと辿っていけば、日常の秩序を乱していることを腹立たしく感じているのだろう。そう考えてみると、日常というものはただ穏やかでかけがえがなくてか弱いものではなく、それをはみ出すものを矯正しようとする、ある強制力を持ちうるものだとわかってくる。その例となるのが戦時体制だろう。

 藤田貴大という演劇作家は、ここ数年、この「普通」や「日常」ということを多面的に考えてきたはずだ。というのも、彼は数年前に台湾で『カタチノチガウ』という作品を上演したとき、観客から「あなたはクレイジーだ」と言われたことがある。『カタチノチガウ』には、直接的に言ってしまえば、子供達に性的な虐待を加えていた父親が登場する。それをもって「クレイジーだ」と言われたのだろうけども、藤田にとって『カタチノチガウ』は脳内で思い描いた絵空事の世界ではなく、実際にこの世界のどこかで起こっている話であった(そして、実際にそれはこの世界のどこかで起こっていることであった)。それを「クレイジーだ」と線引きされたことを、彼はずっと引きずってきたはずだ。まともとそれ以外とに線を引くものは一体何であるのか――と。その『カタチノチガウ』から続く系譜にある『CITY』において、音楽が「ぼく/おれ」や妹の側にだけ配置されているのではなく、劇中ではその点に何も触れられはしないけれど、「コレクター」の部屋にもラジカセが置かれていたことに、思いを巡らせてしまう。


 『カタチノチガウ』という作品あたりから、藤田作品には一つの変化が見られるようになった。それは、過去と現在と未来、三つの時間軸に対する捉え方である。そこにはきっと、ひめゆり学徒隊の話に着想を得て描かれた『cocoon』を上演したことで、現在という時間は、過去の誰かから見た未来だという視点を得たことも影響しているのだろう。『カタチノチガウ』のラストには、こんな台詞が登場する。

「未来にのこされる、コドモたち。カタチノチガウ、コドモたち。わたしや、わたしたちが、見ることのできなかった、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを。あなたたちは、あなたたちは」

この台詞が印象深いのは、ある時期までの藤田作品では、コドモという時間を生きている登場人物が描かれることが多かったからだ。この『カタチノチガウ』も、基本的にはコドモという時代を生きている三姉妹が描かれるのだが、エピローグに至ると大きく時間が経過し、長女はコドモを連れた親となっている。先が長くないことを悟った長女は、次女に娘を託そうとする。『CITY』においても、コドモから大人に至る成熟が描かれている。母親から虐待を受けていた「コレクター」が、母親の右腕を切り落として上京したことも、(その行為は社会的には犯罪であるとはいえ)母親の引力圏におかれたコドモという存在を脱して大人になろうとしたという点においては、成熟を目指したのだと言える。

 あるいは、チャプター9に登場する、「あのひと」と「ぼく/おれ」におけるダイアローグ。まず、「あのひと」がこんなことを語りかける。

「おれたちは、この都市に産み落とされたコドモだ。こんな都市に産み落とされた、産まれることなんて望んでもいなかった、コドモだ。こんな都市に、ヒーローはいない。ヒーローがいたなら、こんな都市になっていない。だれかが、ぼくたちを、無責任に、この世界に産み落とした。そう、だから、われわれは――」

 「あのひと」がそこまで語ったところで、「ぼく/おれ」は「あのひと」を殴り、こう反論する。

「コドモってなんだよ。ひとだろ。ひとだろうが。いつだって「ひと」だったよ、おれたちは。なんでもない「ひと」だったよ。ただの「ひと」だったろ。なあ?」

「ぼく/おれ」が育った環境を鑑みれば、「あのひと」の言葉に押し切られても不思議はないけれど、「コドモ」の立場から大人たちを批判するのではなく、人として現実を引き受けようとしている。まだ妹と一緒に暮らしていた時代の「ぼく/おれ」はまだ、この境地に達してはいなかったはずだ。過去を回想するシーンで、「ぼく/おれ」は、妹とこんな会話をしている。

「おにいちゃんこそ、どうなの、あたらしい仕事は」
「いやー」
「朝はやくて、たいへんそうだね」
「まあ、そういうのはだいじょうぶなんだけどさあ」
「じゃあ、どういうのがダメなの?」
「どうだろう、まあ、ナメられてるよね、基本的に」
「ああ」
「中卒だしさあ、まわりみんなオトナだし。でもそのオトナたちもさあ、みんな胡散臭いんだけどさあ」

 ここで彼は「オトナたち」という言葉を使っている。つまり、職場にいるのはオトナたちであるのに対して、自分は「コドモ」であるということだ。でも、今や彼は「コドモってなんだよ。ひとだろ」と語っている。そうして成熟を目指そうとする態度は、「ぼく、いや、おれは」と、何度となく繰り返される一人称の言い直しに滲んでいる。

 この「成熟」ということにも、音楽の場合と同じように、わたしたちは境界線を引きがちである。つまり、ただしい「成熟」とはこのようなことである、と限定したがってしまう。だが、『CITY』ではそのように線を引くことを避けていたように思える。「ぼく、いや、おれは」と口にするのは、主人公の「ぼく/おれ」だけでなく、「コレクター」も、「あのひと」も、同じように「ぼく、いや、おれは」と繰り返す。そこにはそれぞれの信じる道を突き進もうとするひとりひとりが存在するだけで、そこに善悪の線は引かれていないように思われる――そう感じるに至ったのは、劇がラストのチャプター10まで進行したあたりのことだ。

 すでに記したように、「ぼく/おれ」は当初、正しさがみえている存在であった。それはつまり、正しいことと正しくないことに線引きをしていたということである。彼がヒーローであり、彼の行為が正義であるならば、彼と対立する「コレクター」や「あのひと」は悪となる。だが、チャプター9で「あのひと」から目を切りつけられた「ぼく/おれ」は、目がみえなくなる。だが、それによって、彼は一つの真理にたどり着く。

「ひかりだけだ、みえるのは。それ以外はなにもみえない。ぼんやりと線がみえる。ひかりの地平線だ。ひかりの地平線がみえる。ここにはなにもないから、影もない。暗闇だって訪れないだろう。過去の余韻をかんじる。そうか、現在は過去の余韻でしかない。現在を語ることができるのは、未来を生きるひとたちだ。ぼくたちは、現在を生きているのではない。過去の余韻のなかを、その曖昧さのなかを、ただ闇雲に生きているだけだ。現在がどういう時間だ、なんて、知っているひとなんていない。知ることができるのは――」

 かつての「ぼく/おれ」は、世界に光と影を見ていた。そこには境界線が引かれており、正しさと、そこからはみ出した正しくなさとに分かれていた。だが、チャプター10に至ると、彼は「ひかりだけだ、みえるのは」だと語る。それは上空何千メートルから見下ろしているかのように、徹底的に世界を俯瞰している。その俯瞰した視点から世界を捉えると、誰もが過去の余韻の中を生きており、その中でなんとか風穴をあげようと、それぞれの信じる方法で「ただ闇雲に生きているだけだ」。

 『CITY』の舞台衣装を手がけているのは、アンリアレイジの森永邦彦である。その舞台衣装は、白に見える衣装なのだけれども、光を蓄えると緑に光る素材が使われていた。「ぼく/おれ」だけでなく、多くの――今、「すべての」と書こうとしたけれど、記憶がおぼろげになってしまっている――登場人物が身に纏っている衣装がそのように光るのだ。色というものは様々なことを象徴するもので、緑という色もいろんな意味を象徴する色だろう。その意味を調べることはしないけれど、『CITY』が初日を迎えたのが5月という季節だったせいか、緑から真っ先に連想するのは新緑だ。新緑の季節を迎えるたび、いたるところに生命が芽吹き、グングン伸びる様に圧倒される。チャプター10において、目を切りつけられた「ぼく/おれ」から見える世界は、新緑の美しさに目を奪われているような境地に近いのではないか。ただし、「ぼく/おれ」は植物に対してではなく、人間の営みに対してそのように感じている。善悪の線引きによって人間の振る舞いをみるのではなく、過去の余韻の中を生きている人間の姿を、ほとんど索漠とした境地で眼差している。そこに等しく美しさを見出している。

 「美しさ」という言葉も、マーベル作品で随所に登場した言葉である。たとえば、『エンドゲーム』の終盤で、キャプテン・アメリカは自分の人生を生きてみる選択をする。すっかり老人になったキャプテンに、誰かが「その人生はどうだったか」と尋ねる。それに対するキャプテンの答えは「素晴らしかったよ」と字幕に表示されていたけれど、語られた言葉は「ビューティフル」だった。あるいは、『エイジ・オブ・ウルトロン』において、ウルトロンとヴィジョンが交わす会話にも「ビューティフル」という言葉が登場する。

「人間は不思議だ。秩序と混乱を相反するものと信じ、支配しようとする。だが欠点も魅力だ。君はそこを見落とした」
「滅ぶ運命だ」
「そうだ。だが永遠に続くものは美しくない。私は彼らといたい」
「耐え難いほどのうぶだな」
「それは…昨日生まれたから」

 藤田貴大という演劇作家が描こうとしているものは、ひとりひとりの生命に詰まっている「美しさ」だろう(この『CITY』という作品を描いたことで、藤田作品はよりミクロな世界に向かい、ひとりひとりの「美しさ」を見出そうとするのではないか)。観客であるわたしたちは、それを眼差す。そこに何を見出すかは、人それぞれだろう。『CITY』において、「ぼく/おれ」は「現在がどういう時間だ、なんて、知っているひとなんていない。知ることができるのは――」と語る。劇中における「現在」に対して、それがどういう時間であるのかを線引きすることができるのは、観客ひとりひとりである。そのことを思うと、チャプター10において、観客席が照明で照らされたことには明確な意図があったのだろう(ここまで書きそびれていたけれど、『CITY』における照明は本当に美しかった。藤田貴大が舞台上に「美しさ」を提示する上で、南香織という照明家は欠かす事ができない存在だと思う)。

 客席が照明で照らされるきっかけとなるのは、兵器に改造されて過去の記憶を失っていたはずの妹が、記憶を取り戻すシーンだ。そこで妹は、「すべてみえた、すべてきこえた」と口にする。それは、第一には、過去の記憶がよみがえったことを意味している。だが、客席が照明で照らされることを――上演時間のあいだで、この言葉をきっかけにしばらくのあいだだけ照らされることを――考えると、そこにはもっと広い意味が込められている。その台詞を青柳いづみが発語しきれていたのかどうかはわからないけれど、「すべてみえた、すべてきこえた」という言葉は客席に向かっても語られているし、この世界で起きているありとあらゆる出来事にも向けられているはずだ。この世界では、さまざまな出来事が起きている。そのすべてを「みる」ことは、実際には不可能である。それでも舞台上にいる誰かは、でも、たとえ不可能であったとしても、世界を眼差そうとしている。その誰かの姿を、客席に座るわたしたちは目にしている。そんなわたしたちに、光が当てられる。つまり、その瞬間に、わたしたちは何かを託されている。

 あらためて、何度となくパネルに表示された三つの言葉を思い出す。舞台の冒頭からラストに至るまで、「The Mirror」「The Window」「The Door」という三つの言葉が何度となく映し出されていた。それは一体何を意味するのだろうかと、初日の上演を観たときからずっと考えてきた。それを考えるために、舞台の冒頭に配置されている二つの台詞を引いてみる。いずれも「ぼく/おれ」が語る台詞だ。

「ここは東京。鏡のなかのじぶん。窓の向こうの「あのひと」。扉をあけたらなにが待っている」

 もう一つは、都市の雑踏を歩いていた「ぼく/おれ」が、窓に映る自分の姿を見つめるシーン。

「じぶんが、じぶんをみつめている。ここは雑踏を抜けた、ビルとビルの隙間。じぶんを映している鏡は、ほんとうは鏡ではなくて、ただの窓、そう、ただの窓だ」

 この二つの台詞に登場する「鏡」と「窓」と「扉」の役割は、そのまま劇場に置き換えることができる。観客であるわたしたちは、窓から外に広がる世界を眺めるように、舞台の枠に縁取られた空間を見つめている。でも――これは劇中に登場する「ぼく/おれ」とは逆の回路になるけれど――わたしたちが見つめているのは、どこか知らない世界を舞台とした絵空事の世界ではなく、わたしたちと地続きにある世界だ。つまり、わたしたちは観客席から鏡を見つめている。わたしたちが生きている世界がどのような世界で、そこで何が起きているのかを知るために、わたしたちは鏡を、劇場を必要としている。そこで何かを受け取り、劇が終わると、扉を出て街に戻ってゆく。

 『CITY』は、「ぼく/おれ」が刑事B(山本直寛)に刺される場面で幕切れとなる。「ぼく/おれ」は、誰かを殴ることはあっても、誰かのことを殺そうとは――つまりなかったことにしようとはしなかった。最後に刺されてしまうのは、人に対して境界線を引くことをやめたことの報いでもある。刑事Bもまた、「あのひと」に「引き出されてしまっ」ていて、刑事Aに銃口を向ける場面があった。そうなってしまった刑事Bに対して、ふた通りの対処法があっただろう。一つは、彼はもう危険人物であり、厳重に監視あるいは隔離するという対処法だ。でも、「ぼく/おれ」は――あるいは『CITY』を描いた藤田貴大は――その道を選ばなかった。繰り返し思い浮かべてしまうのは、舞台の序盤で、「ぼく/おれ」が動物病院を訪れる場面だ。病院のベンチには、先に刑事Aが腰掛けていた。ベンチの真ん中あたりに座っていた刑事Aは、「ぼく/おれ」に気づくと端に寄り、彼が座れるスペースを空ける。その些細なシーンのことを何度も思い出す。藤田作品にはときどきベンチが登場するが、ぎゅうぎゅうに詰めて座るシーンとして描かれることが多いように感じる。そこに僕は勝手に「美しさ」を感じ、メッセージを受け取ってしまう。どんなに迷惑で厄介な存在であったとしても、わたしたちはもうすでにお互い存在してしまっているのだから、誰かのことをなかったことにするのではなく、一緒に生きていくしかないのだ、と。

 僕は『CITY』を三度観た。三度とも、カーテンコールではスタンディングオベーションが巻き起こっていた。彩の国さいたま芸術劇場で観劇したとき、僕は観客が劇場から出ていく姿まで眺めていた。でも、豊橋での最後の公演を観終えたときは、この劇を受け取ったのであれば、一刻も早く街に出なければという衝動に駆られ、スタンディングオベーションに包まれる客席を抜け、自分で扉を開けて外に出た。そうして「みかわ家」に入り、大人レモンハイと砂肝を注文した。

 この「みかわ家」を最初に訪れたのは2015年の春だ。『cocoon』の再演に先駆けて、『cocoon no koe cocoon no oto』と題したリーディングライブ・ツアーが開催された。これは藤田さんと青柳さん、それに原田郁子さんの三人によるツアーであり、ツアーで最初に訪れたのが豊橋だった。その夜の様子について、公演をめぐるドキュメントではこう書き記されている。

 あまりのうまさに藤田君の動きが止まる。数秒経って我に返り、皆に問いかける。
「え、ちょっと皆、砂肝食べた? ちょっと食ってみてよ。東京の砂肝はコリッて感じだけど、ここのは『砂肝ってこういう感じなんだ?』っていうか、しゅしゅしゅしゅしゅって食感で。何だろう、この感じ。しゅしゅしゅしゅしゅって」
 よほどうまかったのか、藤田君は同じ言葉をリフレインする。話を聞いていた郁子さんが口を開く。
「ちょっと、私も食べてみようかな。しゅしゅしゅしゅしゅ」
「ここの砂肝なら、郁子さんもいける気がする。脂が少ないから」
「これが砂肝?」と、郁子さんが箸を伸ばす。
「郁子さんが食べる砂肝、俺が選んでいい? ああでも、最初はその砂肝がいいと思う」
 郁子さんが砂肝を頬張る。固唾を飲んでその感想を待つ。
「……うん、縦線と横線がある感じだよね?」
「そうそうそうそう!」と藤田君はちょっと得意げだ。

 あのときのことを思い出しながら、ひとりで砂肝を食べた。そしてその日の日記を、今、僕は沖縄で書いている。僕が沖縄を繰り返し訪れるようになったきっかけもまた『cocoon』という作品だ。『cocoon』が最初に上演されたのは2013年のことだ。そのとき、稽古に取りかかる前に、原作者である今日マチ子さん、演出の藤田貴大さん、音楽を担当する原田郁子さん、それに出演者の皆が沖縄を訪れると知り、僕もその旅に同行させてもらった。旅の初日は6月23日だった。その日は沖縄で組織的な戦闘が終結した日であり、慰霊の日とされている。そこで目にした風景が印象に残り、一度この風景を目にしたからには、出来うるかぎり足を運び続けなければと、6月は毎年のように沖縄を訪れてきた。そして今も訪れている。訪れたからといって何ができるわけでもないけれど、こうして沖縄で過ごしている。ここまで2万字近い文字数で書き連ねてきた『CITY』の感想だって、書いたところで何がどうなるわけでもないけれど、豊橋で千秋楽を見届けた日からずっと、2週間近くかけて書き綴ってきたものだ。これを書いているあいだはずっと、手紙の返信を綴るような気持ちで過ごしていた。

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橋本倫史

1982年広島県東広島市生まれ。物書き。2017年春、『月刊ドライブイン』創刊。
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