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それぞれの思い

 読み専である私が、何気なくたまりにたまったタイムラインを見ていたある日、「#それぞれの10年」というハッシュタグを設定して記事を投稿してくださいというnote公式さんの企画が目に入った。「絶対やりたい」と思うだけでなく、他にもいくつか興味のある企画があったので、これを機に自分が投稿したいことを無理のない範囲でやってみようかなと感じた。つまり、今から書く記事は私がnoteを投稿するきっかけになった企画である。

 それぞれの10年。この10年とは、東日本大震災が発生した日から経過した時間を指す。もう10年か、まだ10年なのか、感覚は人それぞれだろうが、この時期は震災関連のニュースや番組が一年を通して最も多く放送されるため、誰しも思い出すに違いない。
 昨年までは、今日は東日本大震災から〇年目だと思い出すことはあったが、それ以外はあまり思いをはせることはなかった。だが、その価値観を大きく変えた出来事があるので、そのことについて自分なりに書いていこうと思う。

お芝居の企画から東北ツアーへ

 上記にある価値観を変えた出来事とは、昨年の1月に被害の大きかった地域へ伺った経験である。
 私は演劇活動をしており、所属している団体で震災に関する作品をリーディングで公演することになった。その取材のため、8人ほどで被害の大きかった地域に行って、現地の方に話を聞くだけでなく震災遺構や伝承館を周った。これを、メンバーの間では「東北ツアー」と呼んでいるため、以下の文章でも東北ツアーと記載することにする。この企画に参加したことで、東日本大震災についてたくさん知ることができたし、もっともっと知りたいと思うようになった。明るい話だけでなく、悲惨な状況や境遇についても現地の方々は話してくださった。当時行った場所やお聞きしたことを、帰ってきてから記憶が薄れないうちに殴り書きしたものが残っているので、少し長いがその文章を紹介する。

 3月、私が所属している劇団では東日本大震災を題材にしたリーディング公演が行われる。その取材のために、1月24日(金)~26日(日)に岩手宮城の被害の大きかった地域を周った。その記録を、ここに残しておこうと思う。前提として、これは学校のレポートでも課題でもないし、誰かに見せるために書くのではない。記憶が鮮明なうちに、現地で自分がどのように感じたのか、何を考えたのか文字に起こして残しておきたいためだ。この先、何度も見返せるように。忘れてはならないことを、心に留めておけるように。それくらい貴重な体験だった。殴り書きに近いような記録になるだろうが、現地でiPhoneにメモしたものをもとに、少しずつ思い出しながら綴っていく。
 まず、私はこの企画に参加してよかった。企画というのは、このリーディング公演の制作のことである。12月公演の稽古終わり、代表に「いつものお寿司屋でリーディングの制作ミーティングがあるから参加しないか」と言われた。その日は一日衣装合わせをしており非常に疲れていた。いつもの土日稽古より早く終わったし、今日は家でご飯を食べられるな、次の日学校だから早く帰ろうと思っていた矢先である。3月は忙しいからと軽く断ったのだが、台本をWordに打ち込んだり、夜にミーティングするだけ!と言われたので流れでその日は話し合いに参加した。それから12月公演本番までミーティングは行われず、本番が終わり震災関係の本を少しずつ読み始めた。とは言ったものの、ミーティングがある行きの電車で少し読んだくらいだ。しかし、その「少し」の文章の中に私が知らない震災体験がいくつもあった。ニュースだけでは知りえない、被害にあった方々の声がそこにあった。『16歳の語り部』という本を読んでいたが、語り部の方々は同世代であり、その子達が小学5年生の時に体験したことはあまりにも悲惨で、人間の奥底に眠っている、そして誰もが持ち合わせているであろう本能がむき出しになっているエピソードがいくつもあった。ニュースでは物資配給には並んでいる映像が流れていたが、実際は大人が奪い合う光景もあった。そんな光景を前に、語り部の女の子は父親に「人間にはこういうところもある。しっかり見ておきなさい。これを理解した上で、生きていきなさい」と語りかけていた。日本全国からの「頑張ってください!」という言葉に、これ以上何を頑張ればいいのかといら立っている話もある。これらを読んで、リーディングの企画に対する意識が変わった。なんとなく参加していた企画だったが、私はこの企画に参加したい、携わりたいと強く感じた。それから何回かミーティングが行われ、東北ツアーに行く運びとなった。私自身、福島の会津若松以外の東北の地に足を踏み入れたことがなく、震災時にボランティアに行った経験もない。いわゆる「被災地」と呼ばれている地域に行くのは初めてである。被災地をめぐる貴重な体験に出会わせてくださったことに感謝している。東北から帰ってきた今、行って良かったと心の底から感じている。

2020年1月24日(金)0時 出発
 サービスエリアで何度か休憩したが、寒くて外に出たくない!!国見SAに、雑記帳という自由に書き込めるノートがあり、赤ペンでスタッフが一人ひとりに返事も書いてくれる。これは震災前からあるが、震災後は被災者やボランティアの方々の書き込みがありメディアでも取り上げられている。震災関係のことが多く書かれているのかと思ったが、「ラーメンこぼした」というような意外と他愛もないことがたくさん書いてあった。

9時 岩手県 久慈市 社会福祉法人 修倫会 あすリード本舗
 障害者の方が多く働いている工場のような会社。野田村に家がある従業員もおり、その村は津波の被害が大きかった地域である。
 ちなみに、久慈市はNHK朝ドラ「あまちゃん」の舞台である。あまちゃんを見ていた私としては聖地巡礼のような気持ちであった。ドラマで出てきた三陸鉄道の駅や、なつばっぱはここで旗を振りながらあきを見送ったのかとか楽しかった。

田老観光ホテル(宮古市) 田老の防潮堤
 大昔から津波被害が多い地域で有名である。案内してくださった方は、「高い防潮堤をつくることが必ずしもいいことではない、女川町のように海の町の景観を崩さずに津波対策をしている地域もある。しかし、この町ではこの方法しかなかった」「生死を分けたのは個人の判断。地震や津波の恐ろしさをどれくらい意識していたかで変わってくる」と仰っていた。何度も何度も言っていた。ホテルから撮られた非公開の映像も見た。高い防潮堤をつくったらそれを超える津波が来た時に津波が見えないといった状況が理解でき、一言に津波対策といっても様々なやり方があるし、町や人々、行政とやっていく必要がある。

大槌町交流センター
 学生が勉強しているようなスペースもあった交流センター。大槌町には風の電話というものがあり、どこにもつながらない電話が存在する。岩手県出身のデザイナーが作った電話なのだが、もう会えない人に何かを語り掛けたい時に使われる電話らしい、絵本にもなっており、今月24日に映画も公開した。明日友達と行ってくる!!

居酒屋でご飯!鍋!
 その後、旅館に行くまでの道中に見つけた居酒屋でもつ鍋とカキ鍋を食べた。外が寒すぎててみんな温かい飲み物を注文。おいしかった!(^^)!

大船渡温泉♨
 いい旅館だった!着いて早々、駐車場へ出て満天の星を見た。流れ星もみたよ☆彡温泉は露天風呂もあって、顔は寒いけど体は温泉に浸かっているからぽかぽかしていて、露天風呂ってこんなに気持ちいんだと思った。上を見上げると星空だし。いい湯。次の日は私がアラームを止めて二度寝をしたせいで6時18分起床。6時半に朝食なのに寝坊しました。朝食は日の出とともに、セルフで作れる海鮮丼を食べた。

25日(土)
奇跡の一本松 ユースホステル

 奇跡の一本松は本当に奇跡の一本松だと感じた。周りは松も建物も全て流され、何もない更地に一本の松が佇んでいる。近くで見るとより圧倒的な存在感だろうが、少し引きで見ても一本松の存在感は大きい。もう一つ感じたことは、残った松なんとなく寂しそうだと感じたこと。ある日突然、いつも一緒にいた人をなくしてしまう虚無感とかいう一言で表せない、言語化できない感情を、松も感じているのであろうか。寂しかったね、頑張ったねと語り掛けたくなるような、寂しくも逞しい一本松であった。

気仙沼伝承館
 一本松の近くに建てられている伝承館。消防車などが展示していた。

大川小学校
 この場所は、私が最も見たかった場所。本当にすぐ裏、すぐ裏に山へ登る道があった。この場所で、児童や教員が多くの命を落とした。この場所に遺体が… 今、遺体と打った瞬間なんだか怖くなった。これを打っている時間は深夜だから、幽霊とか怖いのかな。遺体という言葉の重みを意外なタイミングで感じた。大川小学校の出来事は、教員を責めるような空気だが、土砂くずれなどの心配もあり実際行ってみて判断が難しいと感じた。私が教員だったら、70数人の生徒の命を預かり、かつ焦りと緊迫した状況で裏山へ逃げようと判断ができたか。自信がない。みんなが責任を転嫁し続けてしまったから、このような悲惨なことが起きてしまった。大川小学校の話をネットで調べると、色んな保護者、生徒の話が出てくる。なぜこのようなことが起きてしまったのか、この先この悲劇を繰り返さないために必要なことは何か考えることはもちろん重要だが、学校直轄でたくさんの命が奪われたことはまぎれもない事実なのである。これは、これからも変わらない。

門脇小学校
 震災遺構は部分遺構にするみたい。これには賛否があるが、学校となると思い出して辛い人もいるだろうし、面積的に大きいし難しいのかな。一筋縄ではいかない。

ひより幼稚園
 石巻市の伝承館に行った。そこで、ひより幼稚園で起こった出来事を知った。石巻市は広いし、使えるお金は限られている。何にお金を使うのか、住居地はどうするかなど、行政と町民全体が協力してやっていくのは、結構難しいようである。伝承館で展示されていた中に、ひより幼稚園の悲劇がある。乗るはずのないバスに乗せられ、幼稚園にいれば助かったのに海沿いにバスが走りだし津波と火事に巻きこまれた5人の児童の話である。印象に残ったのは、ある女の子がみんなを励まし、歌を歌っていたこと。このようにして、地震は直接的な被害だけでなく幼い命を奪っていく。


仙台で漬け丼を食べて、伊達政宗のお城である青葉城に行って、ロイヤルパークホテルでイルミ見た!青葉城からは東京タワーみたいなきれいな塔が3つくらい見えたし、ロイヤルパークホテルのイルミは規模は小さいながらもシンプルできれいだった。特に2日目は仙台を堪能した。ビジネスホテル?シティホテル?の割には十分すぎるホテルであり、2泊ともいい宿でした。

26日(日)
女川町

 女川町に来てまず最初に感じたことは、なんだかあったかい町だなという印象である。小さい町だが、町も人も活気がある雰囲気だ。町全体が一つになって復興に向けて歩いていることが伝わってくる。女川町では、海が見える景観を残し、高台に住居地を作って町の中心に病院や役所を置いて、海沿いは商業施設を建てる計画だ。海沿いの商業施設で魚の丸焼きやホヤをいただいて、観光気分になった。また、震災遺構である崩れた交番の周りを公園にして、こどもたちにも見てもらう。ただ交番の周りに公園があるだけでなく、交番をくり抜く形でいろんな角度から見られる工夫がされている。これは、非常に良いアイデアだと感じた。工事現場の見学会などもやっており、こどもたちにも町が復興する様子を見せるのは大事である。しかし、課題もある。住居地が高台となると、商業施設までの買い物がお年寄りには負担である。降りて登ってを繰り返すことは、体に大きな負担がかかるため、今後この問題を考えていく必要があるだろう。地球温暖化問題を考えると山を削るのはあまり好ましくないが、このような理由から山を削らなければならないことも今回の取材で知ることができた。全体として、女川町は見てきた町の中で復興が前向きに進んでいるような印象を受けた。また来たい。

東松島 野蒜駅
 私はこのツアーに参加する時、震災の話が続いてメンタルが持つか、一本松や大川小学校を前にした時、泣いてしまうのではないかと不安だった。何とかここまで見てきたが、東松島で亡くなった人の魂とその裏に亡くなった方の名前がある石のモニュメントを見たとき、涙が溢れてきた。今でも亡くなったかどうか確認するために訪れる人がいるし、名前順を夫婦は隣にしてくださいとお願いする人もいる。泣く私とは反対に、語り部のお母さんがパワフルで印象深い。「もう大丈夫だよ」と少しなまった言い方で最後におっしゃっていた表情が頭に残る。ご自身もご家族も無事だったようだが、長男は当時遺体を瓦礫から出す手伝い、長女は過呼吸で病院に運ばれた後、家族と再開できたようだ。遺体は死後硬直しているため、無理に引っ張り出そうとするともぎれてしまう。難しく、とてもじゃないけど痛々しい。当時幼稚園だった女の子が、震災や津波、それによりお母さんを亡くした記憶が抜けて、5.6年後に温泉の水風呂でフラッシュバックした話を覚えている。子供たちはまだまだとおっしゃっていた。また、被災地にいる方は自分やほかの地域がどんな被害を受けたのか知らない。ニュースを見ないからか、それどころでなないのか。津波の映像は後でユーチューブで見たといっていたし、自分の地域で誰が亡くなったかとかニュースを見て知ったそうだ。「千代ちゃんだめだったんだ」と話の中でこう思ったと言っていた。また、泥棒をしたことも語ってくれた。子供たちに食べさせるためにほかのお母さん方とスーパーに行き、冷凍食品を探して子供たちに食べさせた。薬局で化粧水を探し、洗わず泥だらけのカピカピになった肌を少しでも綺麗にしようとした。後に、薬局屋の店主に泥棒をしたことを謝ると、「いいんだよ。保険もおりたし、こういうときはいいんだよ」と言ってくれたそうだ。謝ったからこうやって言えると語り部に方は言っていた。助け合いという言葉が、話を聞いていて何度も頭に浮かんだ。

松島
 日本三景の松島!25分しか時間がない中、東北出身の友達に案内してもらいながら橋を渡って島内の弁天様まで行きました。だるまがたくさん置いてありました。船で周ってみたかったーーー!!天気もよく開放感。綺麗でした。

 利久という店で牛タン食べた。牛タンはもちろん美味しいし、仙台は観光したーーーって気分。食べ終わって福島を通りながら帰路。

全体を通して
 全体を通して、「避難したのに戻ってはいけない」ことを多く聞いた。避難したのに、貴重品やペットが心配で家に戻り、そのまま津波に巻き込まれてしまったケースが多い。それと、個人の判断は日ごろの危機意識に繋がる。危機感を持っていればきちんと避難ができたはずだ。油断は大敵、その通りである。また、この震災で多くのこどもの命も奪われた。教育現場で亡くなった子も大勢いる。私たちは震災の恐ろしさを理解し、改めて防災について考えていく必要があるだろう。
 復興はまだまだである。9年経ってやっと、復興への土台ができた。子供たちはまだまだ傷ついている。子供たちだけではなく、遺体があがらず亡くなったことを割り切れない人も大勢いる。人の数だけ、震災がある。同じ地震や津波を経験した人でも、経験した悲しみや絶望は違う。

 旅館や観光のことも書いてあるが、露天風呂は気持ちよかったし松島もきれいだったので、震災以外のことも知ってほしいと切り取らずにこのまま記載することにした。
 この企画に参加して、被害を画面越しと実際に見るのとでは大きく違うと感じた。被災地に行ってこのような感想を持つ人は多いが、私も体感したのでそれがよく分かる。画面越しでは寒いや熱いなどの気温を感じないし、泥や瓦礫が混ざった海水が流れてきた町の匂いを感じることはない。被災した直後に行ったわけではないので状況は異なるだろうが、それでも実際に行くことで被害の大きさが自分が想像していた規模を大きく上回る。

 地震当時、津波が引いて変わり果てた町並みをニュースで見ながら、父が「これ元に戻るには10年かかるぞ」と呟いたことを鮮明に覚えている。あれから10年が経った。活気がある様子が戻ってきたところもあるが、人が戻らず閑散としている地域もあるだろう。また、避難生活を続けている方や行方が分からない方、福島第一原発事故による帰宅困難地域など、地震が残した爪痕は10年という年月が経った今でも大きい。

 この企画で一番感じたことは、人の数だけ震災があるということ。誰一人として全く同じ状況はなく、被災した方々も様々な思いで10年目を迎えたのだと思う。東北ツアーに行ってから自分でも東日本大震災について調べるようになり、映画や写真展などを見に行くようになった。実際に被害にあった方々による語り部活動だけでなく、作品という形でこの災害を誰かに伝えていくことは、私自身も演劇で表現することを通して携わっていきたい。
 予定していたリーディング公演は延期になってしまったが、また無事に公演できることを祈る。

 この経験から、実際の場所に行くことの大切さを知った。この場所で過去に何が起こったのか、自分も現地へ行ってそのことを詳しく知りたい。それを演劇で表現したいが、そのための勉強のためではなく、行くことで何かしら感じるものがあるはずだ。その感じたものは、画面越しや教科書、誰かから聞いたのとは違う、もっとずっと大切なことがあると思う。

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