フェミニズム的哲学 ひとりごと

今日友人と飲んで話す中で

いじめを受けた時と性的なからかいを受けた時の感情の反応の違いはどこから来るのか
なぜ性的なからかいを受けたことは話すことが難しいのか(自分で認めることが難しいのか)
という自らの問いに対して

自分ではどうにもならない属性記号として客体化されることで、逃げ場がないから。最初から個としての自分を無視された上での攻撃のため、個として対抗することができないから。自己嫌悪(ここではミソジニー)として、女の身体を持つ自分自身に返ってくる呪いだから。

と説明がついてすっきりした(実際のプロセスはもっと複雑だけれども)

ここまでいって、記号として客体化されたことに対抗し尊厳を取り戻すためには、その記号を自分で認める(書き直す)作業が必要であって、だからこそフェミニズムは女性の身体を積極的に肯定することをしてきたわけで、「なんであんなことするの?」って思う人は多いだろうけど、私にとってはこれは極めて自然なプロセスだよなと改めて思った
痛みに向き合うことはそういうことだと思う

もちろん"なかったこと"にして、自己嫌悪から目を背けるという対処の仕方もあるだろう(上野千鶴子が言うところの所謂エリート女性的対処法)

同時に客体化されることを恐れる人、客体化されることに慣れていない人は、自ら積極的に先に、他者を客体化することで自己が客体化されることから身を守っているのだと思う
男性社会的な価値観(構造として言っているのであって個々の男性のことを言っているのではない)が、女性を客体化してきたのも男性が客体化されることから身を守るためであると思う
ある属性を客体化することで、その属性を支配することができるからだ

しかしそれでも自らが客体化され、辱められた時、
客体化されたことによる怒りの感情に対して、向き合うこともできなければ目を背けて忘れることもできなかった人間は、その怒りの感情を自分が客体化できる存在(自分より弱く自分が支配できる存在)へと転嫁する

そうして男性が持つミソジニーは再生産され続け、繰り返され、深く深く刻み込まれる

なぜ、男性社会的な価値観は客体化された時、フェミニズムのような対処の仕方ができないのだろうか
これは「メンズリブ」は成り立つかという問いにも繋がる

そもそも客体化されたことから自身の尊厳を取り戻すには、そのプロセスの中で一度客体化されたことを「認めなければならない」のだ
しかし、男性社会では客体化されることそのものが許されていない
客体化された事実に向き合い認めることなしに、尊厳を取り戻すことができない
男性社会は客体化されるという一種の「弱さ」を認めることを許すことなしに、メンズリブを生み出すことはできない

この課題にどう向き合えば良いのか
男性社会の価値観を変えることができるのは誰なのだろうか
「弱さ」を認めるのは当事者自身である必要があると個人的には考えている
だから、女性という属性が男性社会に対して「弱さ」を認めても、男性社会の「弱さ」を認めることを許さない価値観を変えることは非常に難しいと感じている

その事について考えた後で、記号としてだけでなく、個として客体化されることも嫌悪する人と、個としてであれば客体化されても構わないと思う人の違いってどこにあるのだろうという新しい疑問が湧いた

自尊心が関係してくるとは思うけれど、上手く説明できなくて考えている
今日はそれを考えながら寝る

#フェミニズム #ジェンダー #哲学 #エッセイ #ひとりごと

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