誰の味方でもありません

誰の味方でもありません #気ままに読書感想文


「まあ、こんな感じでいいかな」と思ったとき、誰もが「おじいちゃん」になってしまう。

古市さんの言葉はまっすぐと私たちの悩みに刺さる。

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▶︎以前書いた、古市さんの別の本はこちら


「正論」を疑ってみること。いくら「正論」といえども、時代や環境が変われば「正しさ」は変わってしまう。完全無欠に見える「正論」に穴がある場合もある。

正論は諸刃の剣。
振り上げた方と、受ける方の大きさがあまりにも違いすぎる。

どうしても斬りつけるような尖がった言葉を使えない私は、弱虫なのか、八方美人なのか。


考えてみれば当たり前だ。プロが時間をかけて撮影し、加工までした奇跡の一枚に、たまたま訪れた観光客の肉眼が敵うわけがない。ガイドブック以上の光景を簡単に見られるなんて思うこと自体がまちがいなのだ。

本を読んでるとよく思う。「目から鱗だった」「そういえば、確かに・・・・・!」

もちろん自分の目で、その場所をみて、感じて、触れたい。という欲求はある。でもあまりにも過大な期待は持ちすぎずフラットに見れたらいいな。


何かに「好きな気持ち」が芽生えそうになった時は、それを大事に育てるようにしてるという。
年を重ねて経験が増えるほど、誰もが社会に退屈しそうになる。そこで「もうやりたいことがなくなった」とうそぶくのは簡単だ。でもここで「好きな気持ち」を意識的に探すことで人生はきっと豊かになる。

たまたま今日見かけたnoteでも近いことが語られていた。

「◯◯するべき」「◯◯が当たり前だから」とかではなくて、自分が何を感じるか?どう思うのか?
べき論ではなく、本当に自分はを求めるのか。


若くても「おじいちゃん」はたくさんいる

<中略>
人はそうなった瞬間に成長が止まると思う。
作家が一番成長するのは、「自分には才能がない」と大騒ぎする時だと聞いたらことがある。ほどほどの解像度でしか作品を鑑賞できない新人は、名作も凡作も同じように見える。だから自分にも才能があると勘違いできる。
しかし、自身が成長することによって、これまで見えていなかった細かな差異に気づく。そこで初めて「自分には才能がたりなかった」と大騒ぎするのだ。その気づきは作家を成長に導く。

作家に限らず、何の仕事でも同じだと思う。「まあ、こんな感じでいいかな」と思ったとき、誰もが「おじいちゃん」になってしまう。
もっとも「おじいちゃんは」は楽でもあるのだろう。世の中についていくのをあきらめて、見知ったメンバーで、ずっと同じような話をしていればいいのだから。それは天国のような情景でもある。個人的には「おじいちゃん」になるのは、死んでからでいいかなと思う。

自分の才能が見えるのはつらい。
圧倒的な才能の前に押しつぶされそうになる。

そうすると簡単に言ってしまうのだ。
「私なんて大したことない」「◯◯の方がもっとすごい」

そうして思ってしまうのだ。
「こんな才能ならやめてしまった方がいいのかもしれない」「◯◯になれない私は必要ないのかもしれない」

考えるたびに、自分の中でドロッとした感情が湧き出て、胃がキュッとしてくる。すごく嫌な感覚だ。

それでも最近思うことは
「だからなんなんだ。私は私自身のために、好きなものを選び、続けるんだ」

どうしても自分の行動に「意味」や「意義」を求めてしまうけど、それは誰かに対してアピールしたいだけなのかもしれない。

私はこんなことをしていて偉い。すごい。だから価値がある。意味がある。


時間がある人は、トライ&エラーを繰り返せる。結果、他人よりも成功しやすくなる。フリーで働く人にとって、どんな才能よりも、まずは体力こそが成功への鍵なのだと思う。

そうだなぁと。


『君の膵臓をたべたい』(双葉社)という小説では、やたらスマートフォンの描写のシーンが丁寧だった。スマホの前では、都市も地方も平等なのだ。

スマホの前では、貧富の差もないし、都市や地方の差もない。
同じアプリを使い、同じ画面の中で操作をする。
どこにいても、何をしていても、スマホの中は平等なのだ。

海外に行きたいという欲求が湧いてくるたびに私はいつも考える。
「スマホやネットから離れて、見渡す景色が海外であって欲しいのかどうか」

スマホを通せばどこでも、何でもできる状況だからこそ、
リアルな場所で、なぜ今ここに?
は問い続けたい。

#夏 #読書感想文 #積ん読

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