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坂本龍一の音楽を救いとして15年ぶりに活動再開したピアニスト岡城千歳さんのアルバムを聴き返す

ピアニスト岡城千歳(おかしろ・ちとせ)さんが15年ぶりに復帰するという記事を見かけた。これはなんという朗報と思って読んで見ると、こんな書き出しになっていた。

「ポップスをクラシカルに再構築することに長けているピアニスト・編曲家の岡城千歳」

いやいやいや……。岡城さんは、れっきとしたクラシック音楽のピアニストじゃないか。それも、ガチの天才といっていい数少ない音楽家だ。なぜこんな紹介の仕方をするんだろう。

どうやら岡城さんの編曲・演奏による「坂本龍一ピアノワークス3」の発売に合わせた記事らしい。確かに坂本はYMOでの知名度が圧倒的に高いけれど、だからといって彼の作品をまとめて「ポップス」と呼ぶのはどうなんだろうか。東京芸大の大学院卒でシリアスなピアノ曲も書いているんだし。

結局「クラシックのピアニストのアルバム」と紹介することで、聴き手に届かなくなってしまうのが現代日本の音楽市場、ということなのだろうか。しかし、みんな明るく振る舞っている裏で、本当はどろどろした感情を抱えて生きているのではないのか?

だからこそポップな音楽で紛らわしているんじゃないか、という言い分も分かるが、試しに岡城さんの渾身のピアノ表現を聴いてみればいい。そうすれば、どっちが本当の救いになるか分かるはずだ。

僕が最初に聴いた録音は、1999年に発売されたCDで、スクリャービンのピアノソナタ5番が冒頭に入っていて、その後にドビュッシーの映像や前奏曲集からの抜粋武満徹の「雨の樹素描」、最後に彼女の兄の岡城一三の「月」という作品で締めるというユニークな構成だった。

失礼ながらコンクールなどで名前を見かけたこともなかったが、どの演奏も自信に満ちていた。スクリャービンが圧巻だったが、すでに多くのピアニストによって演奏し尽くされたドビュッシーが、日本人の若い女性によってこんなにも個性的に、堂々と弾かれていることに信じられない思いがした。

先生の顔色をうかがうお稽古事の気配が、まったくないのである。それに、普通は日本人のピアニストのCDといえば華やかなドレスに笑顔というのが定番だった中で、岡城さんは思いつめたような、ちょっとふくれっ面のような独特の雰囲気の横顔の白黒写真で、それが演奏の不敵さにぴったりだった。

それから彼女の録音を探し、デビュー盤のスクリャービンがピアノソナタではなく交響曲「法悦の詩」の2台ピアノ用編曲をひとりで多重録音したものだと知り、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲や「ワルキューレの騎行」などをピアノ編曲した録音も入手して聴いた。

テクニックはもちろんすごいが、いずれの曲も自分のものにしていて表現に迷いがないところに唸らされた。選曲もユニークで、濃厚でロマンチックな音楽が好きという主張を貫いているところもよかった。ただ、日本人のクラシック音楽の聴衆はショパンが大好きなので、決して売れ筋ではなかったのだが。

それからシューマンの交響的練習曲や、坂本龍一を弾いた最初のアルバム(ピアノワークス)なども出て、その都度聴いたが、もっとも好きだったのはチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をピアノ編曲したものを弾いたアルバムだ。ジャケットではなぜか不敵な笑みを浮かべて腕を組んでいるが、最終楽章のロ短調の悲しい響きの雲間から、ニ長調の明るい光が差してくるところ(2分半あたり)が実にドラマチックだ。

孤独なチャイコフスキーの魂が、岡城さんの魂と呼応し、まばゆいばかりの閃光を放っている。絶望とあふれる歓喜が同時に立ち現れたような凄まじい演奏に、腹に抱えていた悲しみや憤りが溶けて慰められる。

その後も、坂本龍一の映画音楽集(ピアノワークス2)や、マーラーの交響曲第1番のピアノ編曲版の録音を出し、2003年ころから名前が聞かれなくなった(ビートルズの編曲ものは未聴)。その後、音楽出版社で編曲の仕事をしたり、坂本龍一の子供などにピアノを教えたりしていたという。

それがなぜ15年ぶりに活動を再開することになったのかは分からないが、坂本龍一の「ブリッジ」は「活動休止中に聴いていた、つらい時に私を救ってくれた曲」ということなので、よほどつらい時期があったのだろう。

編集者もそうだが、他人の表現によって「救われた」経験を持たない人がクリエイティブに関わっても、ろくなことにならないものだ。逆にいえば、それだけ逼迫した状況から、音楽を救いとして満を持して再び立ち上がったピアニストの表現が、ひときわ成熟し、説得力のあるものになっていないわけがない。

まあ、新しいアルバムを聴いてみれば分かることだろう。やっぱり「ポップスをクラシカルに再構築することに長けているピアニスト」なんて軽い呼び方は、彼女にはふさわしいとは思えないのだ。

2月13日追記

こんなロングインタビューが出ていたのを見落としていた。

クラシックのお堅い頭の人なんかは、“クロスオーバーには興味がない”、またはもっと強い意見で“認めない”という人も多分にいらっしゃるのではと思います。

念のため断っておくと、僕が冒頭に「いやいやいや……。岡城さんは、れっきとしたクラシック音楽のピアニストじゃないか」と書いたのは、別にクラシック音楽じゃなければ許さないという意図ではない。

彼女の真髄は、これまで録音してきたシューマンやスクリャービン、チャイコフスキーやマーラーの演奏の中にあるのであって、「ポップスをクラシカルに再構築することに長けているピアニスト・編曲家」といった表現に違和感があるというつもりだったのだ。

実際、岡城さんもこのように書いている。

クラシックのなかでも、私はチャイコフスキーの〈悲愴〉やマーラーなど暗い音楽が好きだし、存在を問いかけるような曲を取り上げて、掘り下げていくことこそが自分の強みだったし、得意とさえしていました。でも、本当につらい時には“自分はクラシック音楽を受け入れられない”、という事実が、自分自身にとっても衝撃的なことでした、自分がそれまで信じてきたものが聴けなくなったわけですから・・・。その時感じたことは、「音楽は何も救えない、自分さえも救えないのだから」ということでした

「音楽は何も救えない」と考えていたというのはショックだ。なぜなら僕は密かに岡城さんの〈悲愴〉を繰り返し聴いて、救われてきたからだ。その一方で、絶望や虚無を経た表現にこそ、人を打つ説得力が生まれる、とも思う。これからの演奏活動が楽しみだ。


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