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明仁天皇を心からねぎらいたい

先日、東大卒業式での上野千鶴子名誉教授の祝辞が賛否両論で話題になったが、否定的な評価ではそれに勝るとも劣らない式辞がかつて存在した。

1997年から2001年まで東大総長を務めていた、フランス文学者の蓮實重彦氏のそれである。一連の式辞は『私が大学について知っている二、三の事柄』(東京大学出版社)などに収められているが、特徴は、まずその長さだ。

「改革」の時代だった平成

例えば2000年の「思考の柔軟性」と題した入学式式辞は、四六判の書籍の18ページに及んでいる。縦45文字×横16列にびっしり文字が詰まっており、単純計算で約1万3000字である。

上野名誉教授の式辞が約4200字なので、その3倍を超えている。内容についても、いつもの蓮實節で回りくどく、決して分かりやすいわけでも、一般的な意味で楽しいものではない。

ただ、そこで話されていることには、抽象度が高い代わりに、後になって繰り返し読んでも、その都度意味を問い直せるような普遍的な内容が含まれているなと感じることがある。

2000年3月に開かれた卒業式における「<知性>の動揺を招き寄せる」と題した式辞には、東大の劣悪な施設環境の改善が進んでいることに続けて、こんなことが話されたようだ(改行は筆者)。

わたくし自身は、今日の日本人の多くが、前提を欠いた至上命令のように「改革」の一語を神聖視している現状にきわめて懐疑的であります。
マスメディアが観念的なイメージとして流通させている「改革」の概念は、潜在的な資質をどのように顕在化させるかを実質的に計測しようとする<知性>の働きを、あらかじめ視界から遠ざけがちだからであります。
実際、「改革」と口にしていれば自分は正義の側にいると勘違いする人びとの自堕落な思考停止ほど、始末の悪いものはありません。

平成の終わりにこれを読み返して最初に思ったのは、そういえば平成は「改革」「改革」と到るところで叫んでいた時代だったなということだ。

行政改革、選挙制度・政党助成金改革、教育改革等々ーー。「聖域なき構造改革」なんて言葉も流行った。必要性があり、かつうまくいったものもあったかもしれない。

しかし大概は「官から民へ」「中央から地方へ」といった粗雑なスローガンの下に、役人らしい杓子定規な変更が行われながら、実質的な内容変更や問題解決が伴っていないばかりか、むしろ改悪になってしまったと思われるものも少なくなかった。

「何も変えたくないために、すべてを変えたかのごとく見せかける」というやつである。しかし日本の組織に「真の変化」など可能なのだろうかーー。ただ今回は、その細かい分析には入らない。

「歴史」と「時代」を見つめた天皇

2つめの感想は、1つめとも大いに関係があることだが、「明仁天皇は、平成の時代に新しい象徴天皇の姿を具現化されて、本当に立派であったな」ということだ。

明仁天皇(これを書いている時点で今上天皇)は、当然ながら「皇室改革」などという言葉は使われなかった。しかし、史上初めて平民から妃を迎えるとか、子供を家族と一緒に生活させて育てるとか、これまでにないやり方を次々と実現させてきた。

戦争犠牲者を弔い遺族をねぎらうために、強い希望で沖縄に行ったり、海外に慰霊の旅をしたり。災害時にジャンパーを着て国内を精力的に周ったり、生前退位を決めたりもした。

その内容は実質的に「改革」と言ってもいいほど大きなものだ。当然、その都度強い反対意見があったが、粘り強く押し戻して信念を貫いている。

それは、明仁天皇自身が、天皇という役割の「歴史」を踏まえたうえで、「時代」をきちんと見つめたからこそ、変化の必然性、潜在性が明確に見えており、意味を伴ったものだから可能になったのだろう。

おそらくそこに、美智子さまは大きな役割を果たしたと考えられる。特に、傷ついた人たちに心を寄せる姿に学ばれるところが大きかったのでは。

ところで蓮實氏(ちなみに明仁天皇の3歳半歳下で、初等科から高等科まで学習院に通っている)は同じ本の「変化する細部への偏愛」という文の中で、こうも書いている。

まわりを見回してみると、何かにつけて「とは何か」という原理的な問いを立てたがる人に、ろくな人間がいたためしがないからです。実際、そうした問いのほとんどは、歴史に背を向けた抽象論にゆきつくばかりです。

どこからが抽象論なのか、抽象論では何がいけないのか、という点はさておき、例えば「象徴天皇とは何か、その果たすべき役割・機能とは何か」について、実は明確に定めているものはない。

日本国憲法第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定められているにすぎない(皇室典範や伝統的な儀式などは別にあるが)。

さて、天皇とは日本国民にとって、どんな存在なのか? 「日本国民の総意に基づく」が何を意味するのか、国民は腑に落ちているのか?

一人の人間として深い敬意を表したい

結局、そのことについて「象徴天皇とは何か」という問いを立て、歴史に背を向けた抽象的な議論をしても無意味である。

その答えは、明仁天皇が皇太子時代から具体的な思索と実践を積み重ね、平成の世に開花させた「私の考える象徴天皇像」を見るしかない。

個人的には、平成の世で日本における「象徴としての天皇像」は一気に深まったと思う。それも実質的で歴史的必然性を感じる、素晴らしく知性を感じる「変化」だ。

「3丁目の夕陽」の感覚で、昭和はよかった、平成は衰退の時代だった、などという声もあるが、そんなだらけた国民をよそに平成の「天皇」は邁進した。

もちろん、すべてにおいてご自身の意思を貫けたわけではないだろうし、道半ばであったのだろう。その思いは在位30年記念式典のお言葉にも表れている。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

あらためて考えれば、昭和天皇は大日本帝国憲法下で天皇に即位され、戦後、途中から「人間宣言」をされた。はじめから「象徴」として即位されたのは、明仁天皇が最初である。

右翼の人たちは反発するかもしれないが、天皇も私たちと変わらない人間である。そして左翼の人たちは特権階級と批判するかもしれないが、まずは重い運命を背負って生きてこられた個人に対して思いを巡らせることはできないだろうか。

私は、明仁天皇が30年もの間、皇位を守られ、激務を務められたことに対し、一人の人間に対する思いとして、深い敬意を表したい。それが個人的に「令和元年にやりたいこと」である。

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