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5つの「飽き」に関する自動筆記

今週末には2本目が出るようだけど、朝日新聞社が運営する新サイト「DANRO」に連載を持たせてもらうことになった。大変栄誉なことで関係者に感謝したい。

とはいえ、タイミングがいいのか悪いのか、依頼を受ける前から、ちょうど腹の虫の居所が悪く、だいぶ勝手な原稿を書いてしまった。

そのことを察知してなのか、初回のコラムは、いちおう外してはいけない人たちから高評価はもらったものの、一部の人からは直接間接に不評のコメントも来ている。

いつもみたいな読みやすいスタイルの方がいい、とか。もっと読まれやすいネタがあるだろう、とか。

とはいえ、今後も軌道修正せずに書くだろう。というか、自分でも何にイラついているのかよく分からないのだが、とりあえず現時点で思いついたことを記録代わりに書いてみる。

1.ニュースサイトに飽きた

現在のニュースサイトのスタイルは、間もなく一周忌を迎える大森千明さんなどが、10年ほど前に作ったものだ。もちろんこのスタイルはよくできている。

そのスタイルを愛し、飽きずに続けることも尊いとは思う。が、自分にはどうしても安易な部分が目についてしまう。それは文体ではなく「ネットではこういうものがウケるんだよ」という鉄則への寄りかかりかもしれない。

鉄則を守っていれば、クリックは稼げる。それによってページビューが増えれば、現在の「広告枠」のしくみからすれば、収益を増やせる。

ネットメディアをビジネスとして維持・成長させることは大事だ。やってる方も飽きずにやっているのだろう。しかし自分は、もうちょっと工夫はねえのかよ、という苛立ちをどうしても感じてしまう。

もしかすると、スタイルではなく、ページビュー稼ぎそのものに対する飽きなのかもしれない。

コンテンツマーケティングの議論を援用すれば、「バズる」とか「ページビューを獲得する」といったことに成功したコンテンツであっても、周知の段階はクリアできたとして、行動変容までは起こせるとは限らない。

バズりは全く万能ではないのであるが、あたかも万能のように扱われているのが解せない。

確かにPVは現在のビジネスモデルからすれば、最大の要素のひとつではあるけれど、それはいわばネット広告代理店がバカなために、あるいは技術的制約のために、そういう分配しかできないだけである。

そういう現状の制約のなかで収益を上げるために、そういうスタイルを取らざるを得ないのはわかるが、そんな普遍的価値とはほど遠いものに大事な時間を費やしていいのか。(いちばん腹立つのは、そういう制約の中でやってるという自覚もなく、漫然と現状を追認してるだけのやつ)

まあ、メディア稼業なんてそんなものかもしれないが、なんか違う世界線もある気がする。「ちょっと話題にしてみたくなる」ではなく、「誰にも話さないまま自分の計画を変えたくなる」みたいな。

ぼんやりではあるが、アメリカの本物のクオリティペーパーみたいな世界だってあるだろう。

もちろんネットイナゴの騒動がなければ、日大の内田理事を引きずりおろすこともできなかったと考えれば、やはりクソ記事にも一定の存在価値はあるとは思う。

いざというときに騒げるために、普段から、から騒ぎの準備運動も必要だ。自分も火炎瓶の作り方を決して忘れないようにしたい。

ただ、もうそのルーチンは20代くらいの若い人たちが担うものであって、30、40になれば、そういう手法を自家薬籠中のものにしつつ、「PV至上主義」を脱して新しい手法を自分なりに考えてもいいんじゃないか、という気がしてならない。

2.マスコミに飽きた

既存4マスのメディアには、いくつかの共通点がある。思いつくまま3つあげてみると…

(1)決まった枠があり、それを埋めるのが仕事
(2)インテリぶっているが、中身は大したことない
(3)優等生は死ね

朝日新聞もそうだが、日本の全国紙はクオリティペーパーぶっているが、その中身は下卑た大衆紙であり、部数が増えてなんぼである。知識は広く大衆にも行き渡らなければいけないので(建前)、

「高度なテクニックを自家薬籠(じかやくろう)中のものにしていた彼女にしてみれば・・・」

とふりがなを振らなければならない。逆の言い方をすれば、読者をバカにしているし、バカにおもねる形式を採っている。

こんなことをされて、筆者は侮辱された気がしないだろうか。ふりがなを振られるくらいだったら、いくらでも別の表現を採ることはできたのに。

たぶん、社内ルールなんだろう。ルールを作ることが仕事になれば保守的になり、そのルールを適用する係の人も厳格になる。

思考停止の凡庸な人たちが、忠実に悪をなしている。ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」みたいなのがマスコミ編集の現場には蔓延しているのである。

紙の新聞しかない時代であれば、それもしょうがなかったのかもしれないが…。とはいえ、ふりがなを振れば「読者に親切」というのは、まったく無意味な言い訳でしかないのに気づかないのか?

それに、いまや人々が日々目にする文章のほとんどが、紙ではなくデジタルであり、その気になれば簡単にググれ、リンクを張ることだってできるのに、いまだに新聞の表記ルールを厳守している。

分量だって同じだ。新聞や雑誌の限られた枠を埋めるために、文章を短くしたり、表現を簡潔に切り詰めたり、分量を圧縮したりしたわけだ。

しかし、そのパラダイムの中で形成された流儀を、あらゆる文章に押し付ける必要は全くない。「長すぎると最後まで読まれません」という言い分も分かるが、それでも最後まで読ませようとするのが書き手の力である。

仮に全体の2割しか最後まで読まなかったとしても、その人たちに届けたいことを書き切るというのも、書き手の見識である。

新聞の建前に従えば、読み切れるようなものを書くということになるのだろうが、枠に制限がないんだから、その辺は筆者が勝手にやっていいだろう(末尾の広告バナーを踏ませたいのなら別だが)。

あとマスコミとの関連でいえば、支離滅裂ではあるが「優等生は死ね」というメッセージは、今伝えたい欲求がある。

3.SNSに飽きた

SNSというサービスというよりも、承認欲求の祭りに飽きたということか。そんなものはとうの昔に飽きてはいるのだから、そういうことではなく…。

要するに「インスタ映え」の反対の記事を書きたいという欲求がある。なので初回は「ハタハタ」にした。

インスタの目的は「モテ」らしいが、その正体は要するに「不特定多数からチヤホヤされたい」という欲求だ。しかし、不特定多数からチヤホヤされて何が嬉しいのか、自分にはまったく理解できない。

そんな「モテ」より、自分が認めた特定の対象と特別な関係性――それは付き合うとかヤるとかとは限らず――を持つことの方が、ずっと大事なのではないか。

ああ、ここまで書いてきて、何となく分かってきた。PV稼ぎの記事と「モテ」は、同じ意味なんだな。

※まあ、不特定多数との関係づくりが、自分の希少性を高めて、関係を持ちたい特定少数との関係づくりに寄与するということはあるかもしれない(アイドルと付き合うには、熱狂的なファンのままでいるより、自分もアイドルになって共演を果たした方が、チャンスが高まるみたいな)。

しかし、どちらにしても、重要なのは個別の関係に決まっている。そしてその関係は唯一とは限らないし、その関係性の内容も相手によって異なり一律ではない

まあ、短い残りの人生は、読者とそんな関係を築ける文章を書いた方がいいのかな、という気がしているということだ。あと、蛇足ながらもうひとつ。

4.インタビューに飽きた

人間が興味を惹かれる最大の対象は、人間だ。人間をカメラで撮れば、誰もが見てしまう。対象者がよほど非協力的でもなければ、会話は簡単に何らかの形になってしまう。

練った企画が思ったほど盛り上がらず、想定外の展開が記事を面白くすることもある。そこにはインタビューの難しさもあるのだが、一般的な読者が思っているよりも、インタビュー記事を作るのは簡単で、形にもしやすい。

その割に、芸もないインタビューでドヤ顔するライターが目につく。だからインタビュー形式には頼りたくない。

5.「思ったことを書く」のに飽きた

もうひとつ。いまSNSのインフルエンサーと言われている人が、やっていないことがある。それは「描写」であり、「感覚の言語化」である。

インフルエンサーが生きているのは、不特定多数を相手にした「モテ」の世界である。大多数を相手にすれば、バカになるしかないのである。

もちろんそこには、バカになれる利口さというものがあるのだろうけれども、そこまでして「モテ」なくてもいいだろうと思うと、逆に「お前らには容易に読めないものを書いてやろう」と思ってしまう。

はあちゅう:里奈さんがブログやSNSでの発信で心掛けていることって何?
里奈:ひとつは、わかりやすくすること。私の投稿を全部、隅から隅まで読んでくれる、神様みたいな人はほとんどいないですよね(笑)。
はあちゅう:いませんね(笑)。
里奈:基本的には脳みそにさっと通すように見る人が多いと思います。(略)
はあちゅう:里奈さんの投稿を見ていると、そういう気遣いや丁寧さ、温かみが伝わってきます。
はあちゅう×田中里奈

「基本的には脳みそにさっと通すように見る人」をターゲットにすれば、そういうことになるのだろう。そんな敷居の低さを「気遣いや丁寧さ、温かみ」と呼ぶ世界とは、是非とも一線を画して生きていたい。なぜなら、そんな世界は退屈だと思うからだ。

ということで、ここまで自動筆記のように書いてきたが、もう寝るので推敲せずそのまま出してみる。

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