「自由に書く」ということ

先日、DANROの連載3本目が出た。

すると知人から「もっと読まれるような工夫をした方がいいんじゃないの?」という指摘があった。実はこの手の意見は初めてではなく、連載当初から何人かに言われている。

口調のニュアンスから推測する限り、たぶん否定的というよりは、なぜこんなわけの分からない書き方をしているのか、と不思議なのではないか。もっと分かりやすく、ウケのいい、バズるものを書けるのに、と買いかぶってくれているのかもしれない。

いや、おっしゃりたいことは分かりますよ。見出しを、

「知ってた? 磯丸水産の背黒イワシの唐揚げのコスパがめちゃ高い」
「磯丸水産の対応が神レベル! 背黒イワシの唐揚げが絶品だった件」

とかにすればいいんでしょ?

文章の中身も、描写とか感覚の言語化とかの部分を減らして、写真でも並べて「すげー」「キター」とか感嘆してればいいんでしょ?

でも、もうそういうの飽きた。

厳密にいうと「飽き」だけではなくて、もっと前向きに、自由に書けないものかと考えている。先日、成毛眞さんがフェイスブックにこんなことを書いていて、とても共感した。

10年以上[前]の仕事はすべて雑誌などの印刷物になっていて(当時はそれが嬉しかった)、いまでは検索不能であり、存在しなかったと同様だ。考えてみると、とはいえその分、読者受けを気にしないので、いまよりもっと多様なノンフィクションを取り上げていたような気がする。昔が良かったと思っているわけではない。ネット読者の直接的な反応を気にする[ように]なった自分に嫌気がしているだけだ。もっと勝手に書こうと思う。
※[カッコ内]は筆者追加

もっと勝手に書く、とはどういうことか。成毛さんの場合は、彼の好みや思ったことを遠慮なく書く、ということかもしれない。

けれど、自分の気分はちょっと違う。自分が囚われている枠組みに対して、もうちょっと意識的になり、可能であればその枠を出たもの、ずらしたものを書いてみたいという思いがある。そういう「自由」である。

たとえば、自室の乏しい蔵書(小さな本棚がひとつ)から一冊の文庫本を取り出してみる。後藤明生の『吉野大夫』の書き出しはこうだ。

『吉野大夫』という題で小説を書いてみようと思う。といっても、誰もがよく知っているあの吉野大夫のことではない。京都島原(本当は六条だということらしいが)の名妓吉野のことではなく、同じ江戸期でも、中仙道は追分宿の遊女だったという吉野大夫のことなのである。しかし、結果はどういうことになるのか、皆目わからない。

第一にわたしは、いわゆる稗史小説なるものの筆法をよく知らない。まるで知らないといった方がよいかも知れない。したがって、おそらくそういう小説にはならないだろうと思う。また、何が何でもそうしなければとも思っていない。なにしろわたしは、この吉野大夫の話が果して小説になるのかどうか、それさえいまはよくわからないのである。

後藤の長女の松崎元子さんは、『吉野大夫』を読み返して「私も父からこの精神性を受け継いでいたのかも」と振り返っている。

すなわち、物事は決着しないこと、調べ物は調べないのが常であること、提案はうやむやになる定めであること、など、我が家では当たり前だった流儀が社会では全く通用しないのだということを、私は社会人になって初めて知ったのだ、ということを思い出したのです。

出す企画には具体性が必要であるとか、決まった事案はやりとげるとか、情報は必ず裏をとるべきであるとか、今思えば当たり前のことなんですが、とても新鮮でした。それができるようになるまでに数年かかったように思います。全てを父のせいにするわけではありませんが、迷惑な話です。

確かに「情報は必ず裏をとるべき」とか、昨今のフェイクニュース批判などを考えても、いまの時代では後藤明生には生きにくかったことだろう。

ただ、この書き出しの本質は別のところにある。お話といえば、たとえば「むかしむかし、あるところに・・・」という桃太郎の書き出しが表すように、読者を“いまではないいつか、ここではないどこか”に連れていくものと決まっている。

いや、そういう非日常に連れて行かなければならない、という強迫観念に襲われている、といった方が正確かもしれない。

ところが『吉野大夫』は「『吉野大夫』という題で小説を書いてみようと思う」と打ち明けることで、読者を小説が生まれる“いま、ここ”に引き止めてしまっている。

もっとひどい(褒め言葉)のは、吉田健一の『瓦礫の中』だ。タイトルの書かれた扉を開くと、いきなりこんな書き出しになっている。

こういう題を選んだのは曽て日本に占領時代というものがあってその頃の話を書く積りで、その頃は殊に太平洋沿岸で人間が住んでいる所を見廻すと先ず眼に触れるものが瓦礫だったからである。そしてそういう時代のことを書くことにしたのは今では日本にそんな時代があったことを知っているものが少くて自然何かと説明が必要になり、それをやればやる程話が長くなって経済的その他の理由からその方がこっちにとって好都合だからである。他意ない。

言っておくが、『瓦礫の中』とは、いちおう小説である。その書き出しが、自分の都合の説明、というか言い訳から始まるのだから呆れたものだ。それも「経済的その他の理由からその方がこっちにとって好都合」とは何たることだ。

結局、文庫本の5ページから始まった『瓦礫の中』は、9ページ目あたりからようやく小説らしい動きを見せる。しかしその実態は、

ここで人間を出さなければなくなる。どういう人間が出て来るかは話次第であるが、先に名前を幾つか考えて置くことにしてこれを寅三、まり子、伝右衛門、六郎に杉江ということで行く。まだその名前の人間が出て来る、であるよりも寧ろ出来ている訳ではなくてただ名前の方が何となく頭に浮かんだに過ぎない。これから誰か出て来る毎にその名前のどれかを付けて、名前が多過ぎるか足りなくなるかすればもっと名前を考えるか、或は話の筋を変えるまでである。

こういった調子で、これも読者を小説が生まれる“いま、ここ”に引き止めてしまっているという意味では、『吉野大夫』と同じである。

読み物の話をしているのに、そんな特殊でマイナーな例をあげなくてもいいだろうと思われるかもしれない。しかし両作とも初出は文芸誌だけれど、『吉野大夫』は1981年度の谷崎潤一郎賞、『瓦礫の中』は1970年度の読売文学賞を受賞しており、いちおうその年に評価された話題作である。

まあ、経済が右肩上がりになっていた時代には、サラリーマンが自分を歴史上のヒーローになぞらえて読むような司馬遼太郎以外には小説など必要とされておらず、一方で文学は文学で進歩しなければならないという思いで実験作が評価されただけなのかもしれないが。

とにかく、数十年前の日本の作家たちが、主語や句読点の使い方、小説というものに対する向き合い方――言い換えれば「書くこと」――に対して自覚的、意識的になっていたのは事実である。そういうスタンスを、ネットのコンテンツにも導入できないかということだ。

吉田健一のあの長い一文だって、実はよくよく考えられたものだ。吉田茂首相の長男で、若いころにはケンブリッジ大学にも通った英文学者だ。『源氏物語』も読み込んだ上で、「私」という主語を回避する文体を開発した。

しかし今どきあんな文章を書いたら、「読者に分かりづらい」とかいって、若くて胡乱なウェブ編集者にズタズタに切り刻まれてしまうだろう。

いまどきのウェブコンテンツは、物心ついたころからウェブコンテンツしか読んでいないライターや編集者が、その(思い込みの)感覚を再生産しているものがほとんどで、分かりやすくなければ、煽らなければ罪といった感じである。

全盛期のフジテレビしか見てこなかった子どもが、長じてフジテレビ(や制作会社)に入って「僕のフジテレビ」を再生産しようとしたって、退屈なものしか生まれないのと同じである。

映画は演劇を、テレビは映画をはみ出した人たちが自由に作っているころが最も創造的だった。ウェブコンテンツも、新聞や週刊誌をはみ出した人たちが新しいレールを作ったが、それを後生大事に守っていては飽きられ廃れるだろう。

正直、あれだけ洗練されきったスマートニュースの画面を見ても、どれも同じように大げさに煽っているくせに、開けて見ればクソ記事ばかりで裏切られた気分になることに懲りてしまい、最近はどれもクリックせずにアプリを閉じることもある。

この背景には、ウェブのコンテンツ量が「ニュース」によって爆発的に増えたために(無論、その多くは“名ばかりニュース”だけれど)、現在でも多くのコンテンツがニュースの時事性や新奇性や公益性を装うようになっているという事情がある。

もちろんニュースのように「消費される」「読み返されることがない」ということを前提にした文章が横行している、ということの方が大事だろう。

いや、一番やばいのは、ネット受けを意識するあまり、他人の欲望に応えることを内面化し過ぎてしまい、自分の欲望が空虚になることだ。それを「売れた証拠」と言う人もいるだろうけど。

――と、思いつくままにグダグダと愚痴を綴ってきたが、所詮は言ってることと、やってることが往々にしてバラバラで一貫性のない自分のことだから、批判する対象に似たものを書いてしまうこともあるだろう。

しかし、紙とデジタルの過渡期に生まれ育ったものとして、デジタルネイティブが書かないスタイルで生き残らなければ、とハードルを自らあげようとしていることは事実である。

2019.3.3 追記:野口悠紀雄先生が素晴らしい指摘をされていた。

 現代流の書き方なら、殺人の場面が冒頭で、それが終わった後、時間を遡って、ラスコーリニコフの周辺を描きます。そうした描き方でない限り、編集者に突き返されてしまうでしょう。
 「読者の関心を捉えよう」などということをまったく考えない書き方が許されたこの頃のことを、羨ましく思います。物書きが、自分の思うままに書き進められた時代です。ウエブに文章があふれかえっているいま思えば、作家にとって天国の時代でした。

「そうした描き方でない限り、編集者に突き返されてしまうでしょう」というのは、編集者として耳の痛い話です。まったくそのとおりです。

ただ、「ウエブに文章があふれかえっているいま思えば、作家にとって天国の時代でした」とありますが、たとえばこのnoteにしても一般的なブログにしても、編集者の関与なしに、筆者が好きなように書いている文章は世の中にあふれているわけで、実は「物書きが、自分の思うままに書き進められた時代」が再び(あるいは史上初めて?)やってきたと言えるかもしれません。

その一方で、編集者が読者のアテンションを強引に奪うような文章ばかり量産させたせいで、読者に読解の堪え性がまったくなくなっているので、「するすると読みやすい文章=優れた文章」という価値観しか許容されなくなっています。この点では、確かに「物書きが、自分の思うままに書き進められた時代」ではなくなっているとも言えます。

このような反省の下に、私は多少の読みにくさや不快さを読者に与えながら「自分の思うままに書き進める方法」を模索しています。

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コメント1件

noteの端っこで文章を書く一人として、この反応が適切であるかはわかりませんが 背中を押してくれたような気持ちになる素敵な記事だと思いました
ありがとうございます
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