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東方「原曲」を語る

12月14日です。クリスマスまであと11日!

おことわり

この記事は、東方Projectの「原曲」を少し知る人から愛好家までを対象に書きました。

これまでレポート公開の様なことを何本かしてきましたが、これはただの私的な音楽趣味の話です。しかもちょっとかなりオタク的な。

まあ、コンセプト的には書いたものを保存し、ネットに放流するものなので、一貫性は保たれているということで。そもそも、そろそろ学期末なので本物のレポートを書かなきゃいけない時期…。どう見てもこれは現実逃避ですね…。

課題以外にもちょっと書いてみたいものもあるのでいつかやると思いますが、とりあえずこの記事はただの娯楽趣味のお話。

記事内で紹介している曲のいくつかは、リンク先からiTunes StoreやGoogle Playのストアページに飛べるので、もしよければ購入してみてください。

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不思議なお祓い棒(輝針城)

この8年間、よく飽きもせず聴き続けているものだ。「原曲」は今も私を魅了し続けている。

東方界隈において、「原曲」とは、同人クリエイターZUNの作曲した曲を主に指す。(対してアレンジその他二次創作が存在する)

私と原曲の出会いについてまず語ろうと思ったが、いざ書き始めたらそれだけでA4一枚になってしまいそうだったので、またいずれ語ろう。とにかく、この沼に埋没したきっかけは竹取飛翔の発狂ピアノである。


一.原曲の理論的分析

ほおずきみたいに紅い魂(紅魔郷)

原曲とは何だろうか。

原曲の理論的分析は、サークル針の音楽の『東方Projectの楽曲と音楽理論の考察』などで詳細に行われている。

また、いわゆるZUNペットなど、原曲らしさを作っている大きな要素の一つであるその音源に関しても、「ZUNの音源を再現するスレ@wiki」など、既に様々なサイトで紹介されている。

これらを踏まえた自作曲は、東方原曲風自作曲として一大ジャンルを確立しており、今日に至るまで、完成度の高い自作曲が多数公開されている。
(ニコニコ動画などでタグ「東方風自作曲リンク」で検索すると多数ヒットする。以下にあげる桐生氏のExperiment!!!は、特に完成度が高い。)


二.感性的なものと「良さ」

湖は浄めの月光を映して(紺珠伝)

しかし、理論的に構築された原曲風自作曲に原曲らしさはあっても、原曲を聴いているときの高揚感といったものをあまり得られないのは私だけではないはずだ。

これら高揚感などを与えるものを「良さ」と考える。道具や理論を似せたとしても、たどり着くことのできない領域。やはりそれは作曲者のZUNの「感性」によるもの、としか言い表せないものであるのだろうか。

では、どのようにして感性的なものを受け取るか。感性は部分をみても分からない。

確かに原曲には多用される楽器やコード進行(F-G-Amなど)、フレーズ(タイトル曲等にみられる「いつもの曲」など)があることはよく知られている。

楽器については、いくらかの市販の音源をほぼデフォルトのまま組み合わせており、音作りにいそしんでいる様子は認められない。少なくとも、空間エフェクトなど、曲作りにおける選択肢的な作業はほとんど行われていない。率直に言うと、ただ所持している音源の中で使いやすい楽器を用いているに過ぎないのだろう。そこはあまり重要ではない。

一方で、原曲にみられるコード進行やフレーズなどは、一般の音楽理論に大きく反しており、デフォルトなものではない。あえて理論から外れたコード進行やフレーズを用いているのは、ZUNの感性的なものであることは間違いない。もっと言うと、彼の感性に調和する何かがあるから、それらが用いられているのであろう。

感性的なものであるから、「ニロ抜きのフレーズは巫女の浮遊を表す」という類の理論的な説明を試みる議論は、(面白いので大好きだが、)おそらく都市伝説的なものにすぎない。また、いつものコード進行やフレーズを並べたからと言って、それが原曲の良さを煮詰めたものになるわけではない。

問題は、いかにしてその感性を自分の感性で受け止めるかではないだろうか。


三.原曲の「流れ」、その鑑賞 

桜色の海を泳いで(天空璋)

私がそのように考えたのは、Undertaleの作者Toby Fox(彼は最も好きな作品に妖々夢を挙げ、東方が自身に与えた影響の大きさを公言している)が彼に対するインタビューで、「なぜ原曲が好きか」と問われたときに、独特なドラムパーカッションに魅了されたと述べていたのを読んでからである。

「発狂ピアノ」もそうであるが、大事なのは、音やフレーズといった「部分」ではなくて「流れ」なのだ。原曲は音楽として聴いたときに初めて、原曲の良さがわかるようになる。

至極当然のことなのであるが、やってみると意外と難しい。少なくとも、文学を読むように、ポップミュージックを聴くようには聴くことができない。ハードコアなどダンスミュージックを聴くときとも異なる。

要請されるのは、オーケストラを鑑賞するように、多層な音を一つ一つとらえ、しかし全体として、さらに流れの中で聴いてみることである。


四.繰り返しの中の流れ(例①)

デザイアドライブ(神霊廟)

例えば、天空のグリニッジ(大空魔術)を取り上げてみよう。

音源は一般的なピアノトランペットギターなど、4/4拍子、BPM120という何とも単調で普通な曲である。

使われているフレーズも、二種類のフレーズ(導入部と展開部)を繰り返すという簡素なものであり、一般の作曲技法からかけ離れたものである。さらに、この曲は移調すら行われていないので、シークバーのどこを動かしても、同じフレーズが聞こえてくるはずだ。同じフレーズの繰り返しは音楽のループするゲーム音楽に多くみられる印象があるが、この曲に使われているフレーズのセットはあまりに少なすぎるし短すぎる。

しかし、聴いていて飽きが来ることは無い。

むしろ、グリニッジの時計の如く坦々と繰り返し続けるフレーズは、様々な楽器が折り重なる中で、全体としてその「良さ」を作っている。

他にも、未知の花 魅知の旅(未知の花 魅知の旅)、幻想のホワイトトラベラー(天空璋)に顕著な繰り返しがみられる。

ぼやき
思うに近年の作品は移調などを用いた巧妙な繰り返しが増えている。より複雑になりアレンジが難しくなっているかもしれない、とZUNもどこかで語っていたが、個人的に旧約酒場がその一つの山場だった。
燕石博物誌が連れてきた闇(旧約酒場)や魔界地方都市エソテリア(旧約酒場)など。未だに全体として曲をとらえきられていない、難しい。後者に至っては、星蓮船版もあるが、そちらはとらえられている(と思う)にもかかわらず、である。
一方、天空璋はやや難易度が下がった。曲としての完成度が下がったわけではなく、洗練されたとでも言うのだろうか。否、私が「とらえている」と思い込んでいるだけかもしれない…。


五.連綿→揺らぎ→爆発→連綿の流れ(例②)

少女が見た日本の原風景(風神録)

少し異なる曲を見てみよう。

夢と現の境界(夢違科学世紀)、導入部はピアノを筆頭にいくつかの楽器が絡み合うような旋律となっているが、基本的に個々の楽器は同じフレーズの繰り返しである。

しかし、次第に揺らぎ(「発狂」ともいう)へと向かっていき、はじけたあとは一転して統一感のある旋律となる(ここでも同じフレーズの繰り返しである)。そして、最終的に発狂を予測させるような、揺らいだ旋律に戻っていく。

その名の通り、夢と現の境界をさまよい続けるかのような流れが、空間的に絡み合う旋律を通じて、全体としてその「良さ」を作っている。(この曲は、頭が疲れきった時に聴くと、とっても気持ちよくなれる。是非試していただきたい。)

輝く針の小人族(輝針城)も同様の連綿→揺らぎ→爆発の流れを取る。しかし、こちらはその過程にガス抜きともいえる小発狂が挟まれており、次第に大きくなっていくフレーズが、巫女の理不尽な暴力に立ち向かう小人の様子を表している、などという解説ができようか。野暮か。それでも、この流れがまた別の雰囲気を纏って、全体としての独自の「良さ」を形作っていることは疑う余地がないだろう。


六.まとめ ~「原曲」を聴く

ヴォヤージュ1969(永夜抄)

以上に見た様に、原曲の「良さ」とは、理論に裏付けされたものではない、大部分が作曲者の感性に依拠した、「流れ」にある。

もちろん、おおよその原曲はゲームのバックグラウンドで流れる音楽であり、演出のためであるから、聴く者の感性とディベロッパーの感性を無意識に調和させる舞台装置、黒子であればよい。

しかしその黒子に意識を向けてみると、そこには作曲者の感性を如実に表す、空間的、時空的な「流れ」が存在し、そこに原曲の「良さ」があるのだと気づくことができるだろう。何より、デザイナーとディベロッパー、作曲者が同一人物である東方ならではの「流れ」のスケールがそこにはある。

だから原曲は聴いていて楽しいのだ。


Ex.好きな原曲と自身の環境

夜空のユーフォ―ロマンス(星蓮船)

最後に好きな原曲、自身の環境について語ろう。

人気な曲は数多くあり、それも人気なだけはあってどれも素晴らしい。上にあげた三曲に加えて、それなりにマイナー曲を並べると、衛星トリフネ(鳥船遺跡)、廃獄ララバイ(地霊殿)、Dreamy Pilot(幺樂団の歴史1)も好きである。もっとも、六十年目の東方裁判(花映塚)などもお気に入りだ。

環境は、全体がちゃんと聴こえる程度であればそれでよいと考える。逆に言うと、音質が極悪であるYouTubeなどの転載(【高音質】に騙されてはならない、実際カットされて聴こえにくい音も多い)や、低音を強調するタイプのヘッドホン(ハウス等が流行っているこのご時世、大変人気である)などはあまりおすすめではない。

参考までに私はFinalのイヤホンと、Sonyのヘッドホンを愛用しているが、特に前者は高校生でも買えるようなもので、楽しめる程度にこだわっておけばよいだろう(Final、特にHeavenシリーズは高音がとても綺麗なので、好きな人にはおすすめ)。

オーディオ機器への投資は確かに生活を豊かにするが、ほどほどの満足できるものを見つけられれば、それでよい。大切なのは、音楽を楽しむことなのだから。


さくらさくら ~ Japanize Dream...(妖々夢)

最近、Apple Musicに加入してから原曲以外の曲も、様々にジャンルを横断してよく聴くようになった。この様な経験は、確かに原曲を聴くときの楽しさを増大させている。というのも、比較したり外から見たりすることが時に新たな学びを与えてくれるからである。

参考までに、私が2019年に聴いた曲のベスト10はこんな感じ。

上の8曲に加えて、本来はプレイリストに夢と現の境界(夢違科学世紀)、永遠の巫女(蓬莱人形)が入っていたが、CDから取り込んでいたからか、Appleの策略によって共有プレイリストに反映されていない。おのれGAFA。

様々な原曲観があるだろうし、私も初めてこのような言語化を試みたので、伝えきれていない部分が多分にある。

何より、結論があまりに普通で当たり前となったことが自分でも驚きである。いや、様々な聴き方をやってみてたどり着いた真理であるのに、灯台下暗しという感覚もあまり無いので、きっと普通に見えて少し特殊なのかもしれない。しかも、実践としても最近ようやくできるようになってきたことなので、まさに言うが易し行うは難しとはこのことなのだろう。

もっとも、音楽の聴き方は、それこそ人それぞれなので、そのような楽しみ方もあるんだなあ、と思って頂ければ幸いである。そこから何を得るかということもやはり、言い表せない個人の感性によるものなのだから。

謝辞 ~GUTの企画について

GUTアドベントカレンダー2019の企画の一環でかかせていただきました。

初めて同人向けの文章を書きました。この様な機会が無ければ、こんな言語化の試みをすることは一生無かったことでしょう。自分でも引っかかる点はありますが、読めるものにはなったと思います。ありがとうございました。

正直申し上げるとほとんど顔を出したことのない私なんかが企画に参加して、少し申し訳ない思いもあります。機会があれば、原曲についてでもそれ以外についてでも、ぜひ皆さんとお話してみたいです。
合同誌で原曲対談企画とか、ぜひやってみたいですね。

ではでは。

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