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Pocock, J. G. A., "The Ancient Constitution and the Feudal Law" Chapter I - I 和訳

Pocock, J. G. A., 1957→1987, "The Ancient Constitution and the Feudal Law", Cambridge University Press: Cambridge.

・Chapter I の冒頭部数ページのみの和訳(私訳)です

・パラグラフごとに区切っています

・ページ数は原著におけるパラグラフの開始位置を示しています

・パラグラフごとの小見出しは原著にはなく、訳者が加えたものなのでズレている場合があります


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Chapter I

Introductory: the French Prelude to Modern Historiography

I

〇歴史叙述historiographyの古代と近代(p.1)

 この本は近代の歴史叙述の興隆の一つの側面,すなわち一般的にどうやら16世紀に遡れると思われている動きにスポットをあてる試みに基づいて書かれている。というのは,そのときようやく,この歴史家の作品artは,その時代の社会制度を再構築し,それを背景として,またはそれを用いて,その時代に生きた人間の行動,言葉,思想を解釈するという特徴を持ち合わせるようになり,それ以来この特徴が作品を他から際立たせてきた。このことが歴史学研究法として知られているものの核心であることは証明のなされる必要もない。さらに,このことが近代の歴史叙述を古代の歴史叙述から区別していることは,ギリシアやローマの歴史叙述の手法との比較によってみることができよう。
 古代の歴史家は,人間の出来事にまつわる知性的なintelligible語りnarrativeを構成する技法を発見しただけでなく見舞えるばかりに発展させ,同時代における自らのそれとは異質な社会について記述し,人間の行為や思考の多様性が異なる環境や伝統のなかで生じることを記していた。しかし彼らは,自分たちの文明の過去に,人間の思考や行為が現在のそれとはあまりにもかけ離れている時間の広がりtracts of timeが存在していたというその前提となる点に決して到達していなかった。そして、ある時点においてそれぞれの空間的広がりがあったことtracts of timeは,それらが起こった世界の全体がよみがえらされること,すなわち世界の全体が詳細に叙述され,人間の思考や行為themを解釈するために用いられることによってはじめて知性的に理解されるintelligibleものであった。いかなる古代ギリシア・ローマ世界の歴史家も,このことを行うための卓越した十分な方法があるということを主張しなかった。それゆえ,彼らが書く歴史は軍事や政治に関する出来事の語りか,比較に基づく政治的な分析から成っていた。
 過去というものは,そこに特有の法則の発見と適切な調査手法の開発によってのみ理解される,特別な研究領域special field of studyであるという考えに基づいて行われる過去についての研究は,彼らが書く歴史には含まれていなかった。しかし,このことはまさに,近代の歴史叙述の際立った特徴なのであり,語りを構成するための古い手法に優先するものであった。歴史家は,社会の過去の段階に関する研究を終えたとき(しかしこのときに限って),その結論を一つの語りa narrativeに結合させるという問題に直面する。その語りのテーマは,人々や統治の行為のみならず,永遠に絶えることのない社会構造の変化なのであり,そして,彼の主題におけるこれらの二つの側面の相互作用なのである。いかにして,過去を再構成するという観念が歴史家の考えを支配し始めて,文芸作品narrative artとして紡がれた歴史についての古い主張に対して歴史家の注目を競うようになったのかを発見することが,それ以来,歴史叙述に関する歴史家にとって最重要なことである。


〇古代ギリシア・ローマの歴史叙述(p.2)

 古代ギリシア・ローマの歴史家は,過去の探求について特別な技法を発達させなかった。というのも,彼らにとって過去というものそれ自体,歴史叙述の先駆者である彼らにおいて逆説的にみえるかもしれないが,並外れた重要性を持たなかったからである。ここでは,spatium historicum,過去への視点における歴史的なものと神話的なものとの境界を論ずるつもりはないが,現行の議論のために一点指摘しておくのが良いだろう。ギリシアとローマの人たちは,中世や近代ヨーロッパの人たちが意識的であったのとは異なり,彼らのすぐ前の時代にきちんとした文明が存在しており,その制度,観念,物質的遺構,そして文書を通じて自分の生活へと影響を与えているということについて,意識的ではなかった。そこには彼らにとっての探求する必要や,探求のための証拠を有しているような過去の世界というものは存在せず,彼らの歴史的感覚は自身の世界への探求と,同時代の異なる社会との比較において培われていた。しかし,私たちにとって古代ローマが過去の世界であるという感覚が現存し,古代ローマを理解し,私たちとその過去との関係を画定する必要性は,中世や近代の両方においてヨーロッパ人の思考における基本的な事実であり続けている。そして,もし過去に対する研究を行う欲求が近代ヨーロッパの歴史叙述の本質的な特徴であるならば,その欲求は,ヨーロッパにおける,我々がその興隆と起源を探し求めるべき古代世界に対する恩義の感覚のなかに存在するものなのである。


〇「古典古代classical antiquity」の変遷——中世からルネサンスへ(p.3)

 我々がそこにおいて探求を行う領域は,人文主義という名で記される,古典についての学識における技術,すなわち古代世界に対するアプローチの方法の変遷である。中世思想はルネッサンス思想と同様に古典古代の重要性を強く意識しており,両者を分かつ点としてただ唯一挙げられるのが,古典古代をよりよく理解するために用いた方法のうちにしかみられないという事実—それが根本的なものであるとしても—を理解していなければ,「古典古代の再生the revival of classical antiquity」というフレーズは,人文主義にあてはめられた際に無意味になってしまう。中世とルネッサンスの人々は,同様に古代をもとにして自らを形作ろうとして,古代の教えを受容し,彼らが出来得る限りでその正典を権威付けようとした。しかしながら,中世期における合成的で寓意的な精神によって採用されたそれらの方法は,全体として古代の生活と当時の生活を想像力豊かに合成させることをもたらした。ヘクトルとアレクサンドルは騎士とされ,ピラトの裁判は封建法の形式に則って行われたと想像された。そして,さらにもっと学識の実践的な段階に至っては,ローマ法の語彙は中世ヨーロッパの統治にためらうことなく用いられた。
 今日に生きる筆者にとって,中世の人々がこの点において何を為していたかということについて,もしあるとするならばどれほど自覚的であったか探るのは,能力を超えているものである。ローマがキリスト教世界とは異なるといういくらかの意識は確かに存在していたものの,過去と現在の生活がどの点で異なっていたかを区別して明らかにする必要性を感じていなかったことは明白なことであった。この営為は人文主義者が率先して取り組んだ新しい過去へのアプローチの帰結として生じたものであるが,それでもそれは偶然的,間接的,そして逆説的に生じたものなのである。


〇人文主義における「古典古代」(p.4)

 人文主義者の思想は,古代世界を模範modelとする必要性について,中世の人々よりもはるかに強く主張していたが,中世の学識における古代世界の表象に対して激烈な不満を表明していた。彼らは,これまで権威があると考えられてきた古代のテクストが何層にもわたる註釈や寓意,解釈に厚く塗り固められていることを指摘し,さらに,これまで研究なされてきたものがその註釈でありテクスト本文ではないことを私的した。人文主義者の思想は原文に戻るものを呼びかけるもの(そのような訴えはそれまでもあったが)であり,常にその註釈者が為してきたことよりもより良いテクストの理解を求めていた。この主張は研究の原資料を増大させ,技術を改良させたのであり,人文主義が上手くいくことを可能にした。しかしこの点で,歴史叙述の歴史という観点から見た際に,人文主義者の運動における逆説的でありかつ真の重要性を持つ点に直面することになる。というのも,これらの主張や要求をするなかで,人文主義者は「それが本当にそうであったような」古典世界に回帰することを求めていたことは,いくら強調してもよいのである。そして,彼らのプログラムをこのような言葉で理解するときに,近代的な歴史意識の入口thresholdに立っているということを理解せざるを得ないのである。
 そして,その変遷を完遂させるような逆説は次の通りになる。人文主義者は古代世界をよみがえらせて,古代世界を模倣しようとしているのである。しかし,そのよみがえらせる作業が徹底して先鋭になされればなされるほど,模倣が不可能であるか,模倣以上のものができないことが次第に明らかになってくる。古代的なものは古代世界に属するのであり,よみがえらせることのできない数多くのものと関連し依存しているのであり,そして結果的に,同時代の社会に組み込まれることはできないのである。
近年の研究は,死語となり果ててもはや日常生活の一部として自由かつ自然に利用されなくなった古典ラテン語の言語や文法を,人文主義者がいかにして復元しようとしたか,新たに辿っている。その著者によれば,古典ラテン語は単なる歴史や古典への興味の対象,自分ために研究しようとする人のためだけに重要とされる,消えた世界の一部となっていたという。しかし著者はさらに,この過程がいかにして,ラテン語による著者が生きていた世界を描き出し,ときには自身の目でその世界の一部として著者を解釈しようとすることを目指した新たな学問分野の発展を伴っていったのかについても示している。つまり,人文主義者は彼らの原初の目的からはかけ離れて,ギリシア・ローマの知恵を逃れ難く過去へ追いやり,最終的には近代世界にすぐに直接適用されるべきという主張を取り除いた。
 しかし同時に,彼らは独立した研究領域としての過去についての問題へ注意を向けさせて,その探求のための技術を完成させるべく野心的に取り組み始めた。もし独立した方法的学問scienceとして考えられていた過去の探求が,近代的な歴史家の特徴であるとするならば,その基礎を作り出したのはまさしく人文主義者であった。
 また,これがすべてではない。人文主義者はギリシア・ローマの文明を一つの独立した世界,過去という世界を構成することを示したが,ヨーロッパ人の考えから,過去が何らかの方法でまだ存続しているという事実に根深く根源的に影響されている感覚を奪い去ることができなかった。それゆえ,人文主義者の作品は現在と過去の関係についての問題全体を提起することとなった。過去は現在と関連しているのだろうか?過去を研究することに(現在を理解するうえで)何か意味があるのか?現在において残存する過去の性格はいかなるものか?そしてもしかしたらとりわけ,過去はどのようにして現在になったのだろうか?歴史的な変容の問題は,古代文明の性格についての新しい研究が進行するにつれて,かつてないほど複雑かつ普遍的なものとなってきたわけだが,ヨーロッパ人の思考に16世紀末期より前から影響を与えていった。そういうわけで,近代の歴史叙述のはじまりを,私たちは人文主義の逆説のなかに探し求めるべきなのである。

〇歴史叙述にまつわる歴史の見落とし(p.5)

 人文主義者の功績は,ヨーロッパのいくつかの学問分野における歴史学研究法の歴史的展望とその基本を打ち立てたことにある。しかし,この運動の重要性は,歴史叙述の歴史において本来受けるべき注目を得られていないように思われる。この明白な見落としに対しては,多くの原因を帰すことができるだろう。この運動の進行は果てしなく遅く,その完全な帰結は18世紀初頭になってようやく感じられるものとなった。そして,その活動を支えていた学者は,自分たちが為していることの意味を十分に意識しておらず,過去はもっぱら道徳的訓育のために,模倣すべきであり,避けられるべき実例の宝庫として研究されねばならないと考え続けていた。この人文主義の主要な原理は,しばしば指摘されるように,歴史的思考の発展を妨げたり,すくなくとも歴史的思考の発展に好意的であったりはしなかった。しかし,このことは16世紀や17世紀の歴史叙述の歴史のすべてではなく,それがすべてであったかのように書くという誤りはなされるべきではない。人文主義者が道徳化の動きに偏っていたとはいえ,歴史的思考の発展は様々な経路を通じて連続的に見てとることができる。
 しかし,歴史家の怠慢は,この発展があまりに様々で広汎であるということから,さらに説明される。その歴史は,一つか二つの明確で容易に指摘される科学scienceが急速に発展し,その他のものを共に運んでいくような事態—数学や物理学,天文学が科学革命の歴史において中心的なテーマを提示している様に—をめぐる単純な問題ではなく,偶然的に,または無数の学問領域の周辺でわずかに発展して,それぞれの事例においてその学問分野に適切な歴史学研究法を発達させてきた歴史的アプローチをめぐる問題なのである。歴史的叙述をめぐる歴史はそれゆえ,単一的な進化の研究として書かれることが決してありえない。少なくとも現在において,出来得る限りのこととしては,歴史の展望の発展を,それが最も明白に表されるいくつかの領域において辿ることなのである。


〇批判的技法と文芸的形式(p.6)

 しかし,歴史叙述の歴史についての重大な事実として,16世紀や17世紀における批判的技法の発展は非常にゆっくりとしたものであり,文芸的な叙述の形式としての歴史を書くということと結びついたのはかなり後であったということがある。すなわち,当時そこには一方に学者と好古趣味の人々が,他方に文芸的な歴史家がいたのであり,それらが大きく分かれていたのである。そして,文芸的な形式の歴史は独自に洗練されていき,学者によって培われてきた批判的技法に目を向けることも,独自に似たような形式を発展させることもなかった。
 こうした状況が変化したのは,ピュロニズムpyrrhonismによる一種の革命(懐疑主義に基づく広汎な運動で,歴史についての語りは信頼できる完全に信頼可能な形で行われるかどうかというもの)が生じてからであった。この革命の特徴は,ポール・アザールPaul Hazardによって研究されてきた。主導者の視座は文芸的叙述という意味での歴史にはっきりと固定されており,その視線はまた,マビヨンをはじめとした学者が急速に発展させてきていた方法,すなわち過去における出来事の信頼性を評価する批判的な方法の排除に向けられていた。もし彼ら(ピュロニスト?)がそのような人物(マビヨンら批判的技法を発展させた人々)に注意を向けていたcloser pay attentionならば,彼らのピュロニストとしての失望(すなわち批判的技法は文芸的叙述に劣るというもの)はよりすくなかったかもしれない。
 しかし,似たような過ちを近代の歴史家も犯しているようである。歴史叙述の歴史は,歴史叙述を歴史の名を関したそれらの文芸作品と同定できるかのように論じられており,結果として,文芸的な歴史(?narrative history)を書かなかった学者の成果の重要性を十分に認めることのない一辺倒な理解が生じることとなってしまっている。例えば,故人であるヨハン・ホイジンガは,あるとき近代科学のすべての歴史は,中世の大学に帰せられるものがほとんどないと記したことがある。彼によると,一つの例外を除いて,近代科学は神学と薬学,法学の三つの偉大な学術のいずれかないし三学四科の自由七課のいずれかに端を発している発芽のプロセスによって発展してきたという。しかし,もし歴史学が中世の学科に具現化されるのであれば,修辞学の下部門として,すなわち批判的な目的や方法を持ち合わせない朗読declamationの単なる一形態として存在するのであり,結果として批判的な科学へ至る発展は,大学の外から生じたと言わざるを得ないのだというのである。


〇批判的技法と文芸的形式の再統一(p.7)

 今やこのような判断は,歴史なるものをその名を冠した文芸的形態と同一視すると決意した場合にのみもたらされるものである。いったんそのような強迫観念を取り除いたならば,様々な標準的な著作からは良く知られたものであるが,高度な独自性と複雑さを兼ね備えた文芸的ではないnon-narrative歴史研究は,未だ中世的な組織とカリキュラムであった16世紀のフランスの大学で行われていたものであるし,歴史的思考は法学部で発展したものであった。ルネサンス期の法学者の歴史的学派は,本章の残りの主題を供給してくれるものであるが,もう一つ指摘せねばならないことがある。
 歴史叙述の歴史についての教科書的説明によると,16世紀や17世紀の学者の功績が文芸的narrativeな歴史と再統一されて,現在の作品と同じように認識される大きな歴史的著作を生み出すようになったとき,それはロバートソンRobertsonやギボンGibbonといった巨人が用いていたような(手法である,accumulationにかかるのではないか?),多かれ少なかれ検証された事実についての単なる蓄積でしかないという印象が生み出されがちである。しかし,次に見る様にこのことは全く正しくないのである。初期の学者(ロバートソンやギボンの前?)は,多かれ少なかれ事実を歴史的文脈に戻して,そこで事実を解釈することに意識的に取り組んでいたし,このことが歴史的考察における複雑な問題を体現することにつながることが既に示唆されていた。すなわちその問題とは,過去と現在の関係,そして現在における過去の存続である。
 法学者にとって,このことは特に問題であった。というのも,彼らが過去の文脈にあてはめようとしているデータ(『学説彙纂』や慣習法など)は,同時に現在の社会が自身を統御するために準拠しようとしているものであったからである。16世紀の学者が関心を持つようになっていた歴史の問題は,大きな影響を及ぼしえるほど成熟adultしており,喫緊といえるほどに実践的なものであり,そして哲学的に深いものでさえあった。当時の学者がその問題に対して考えていたことは,彼自身にとっても,その同世代の人々にとっても非常に重要なものであり,彼自身の文明における歴史理解に常に影響を与えるものであったのかもしれない。それゆえ,この種の思考は歴史叙述の歴史において真に,非常に重要な部分を形成するのである。

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