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規則功利主義における密教的道徳の検討

おことわり

 このnoteは、私が様々な機会に作った習作をネットの海に放り投げることで,自己満足することを目的に作られています。
 一方で、あくまで「習作」として、自分なりにそれなりに満足する出来のものを放り投げられるようには心掛けているので、何らかのリアクションをくれるととても喜ぶかもしれません。

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 今回の記事は、私が春学期に受けた1年生の必修授業である論文書き方講座、通称初ゼミ(井上先生)で書いた小論文に一部改変を加えたものです。

 正直な話このnoteは、この小論文を供養するために作ったといっても過言ではないです。

 人文・社会科学の様々なラインナップからテーマを選べるタイプの授業で、私は「功利主義を考える」を選択しました。ちょうど3月頃に国立後期の小論文対策という名目でサンデルのハーバード白熱教室を読んでいました。ふと、日本には政治哲学の学者ってどんな人がいるんだろう?と思ってググったときに出てきた名前の先生が、たまたま自分の入った大学の人で、しかも選択可能な授業を持っていたので、思わず選んでしまいました。(正確に言うとこの小論文は倫理学寄り)

 文献を読み、コメントペーパーを書いて、議論をして、最後に小論文を提出するという授業でしたが、小論文は一人でやらなければならないことがレポートなどと比べて格段に多い分、やっぱり大変でした。

 3年前に高校の授業で書いた小論文が酷い出来でかなり後悔していたので、今回は時間もかけた甲斐もあり、納得のいく出来の議論はできたと思います。良い評価も頂けました。一方で、かなり細かい議論となってしまったので、分からない人には何も面白くないものになってしまっています。ただ既出の大学者の説を重箱の隅をつつくように批判しただけなので…。(今回の反省点!!)

さまりーないし簡単な説明

 簡単な要約は序論のところで行っていますが、念のため功利主義を簡単に説明しておくと、「正しいことは、その結果が人々の幸福の総和を最大化するもの」であるという考え方です。どの時点の結果を考えるか、どの人々を考えるか(はたまたそれは「人々」なのか)、幸福とは何か(快楽なのか、希望が実現することなのか)、様々な議論が存在します。また、これが個々の行為に対して適用されるべきなのか、それとも規則に対して適用されるべきなのか、これに対しても様々な議論が存在します。必ずしも、「最大多数の最大幸福」とは言えないのが現代の功利主義です。

 以下のページが分かりやすいと思います。

 また、上のサイトを書かれた児玉先生の著書です。授業の教科書。東大で3番目くらいに売れた本(らしい)。近年流行りのトロリー問題(通称トロッコ問題)にも触れてます。

 本論文では、功利主義の中の「規則功利主義」(個々の行為ではなく、規則に功利主義を適用する)に着目しました。規則功利主義とは、例えば「嘘をついてはいけない」という一般的な規則は、功利主義的に正しいと言えるのでそれを採用し、そのもとで、たとえ個々の行為の帰結が嘘をついた場合の方が良くても、「嘘をついてはいけない」という規則を守るという立場です(すみませんよくわかっていないかも)。しかし、世の中には嘘をついた方が良い(=幸福の最大化に貢献する)場合も少なからず存在します。殺し屋から友達をかくまっているときに、殺し屋に友達の居場所を問われて正直に答えるのはカント=規則絶対主義者だけです。多くの場合、例外規則や例外的措置が求められます。そのようなときに、もはや一般人が規則功利主義に基づいて行動するのは逆に危ない。むしろ、賢人たる功利主義者が密教的に規則功利主義を扱い、一般人に指示する形をとるしかない。そのような議論「規則功利主義の実践における密教的道徳」を批判するという内容です。

PDF版と表記上の説明

 ちょっと長い&レイアウトが論文形式なので、PDFで読みたい方は下のファイルをどうぞ。(ただし、最低限の個人情報などは消してあります。)

 なお、以下の文章における(i)~(xii)は註釈番号を表しています。各項の最後に註釈をつけています。これは、noteの仕様でwordみたいな便利な註釈をつけることができなかったからです。

 あと、当たり前ですが著作権はたぶん私に帰属するので剽窃はダメ。こんなの剽窃する人いないと思うけど念のため。

 以下、小論文のコピペです。


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序論

 本論文は,密教的道徳を密教的に行うことが,規則功利主義の実践として適当なのかということについて検討することを目的とする。規則功利主義における密教的道徳は,英国の倫理学者ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick, 1838-1900)が,自身の著書『倫理学の諸方法』(i) の中で提唱したもので,彼は密教的道徳を,人々の嫌悪の対象であることは認めつつも,現実における規則功利主義の実践において不可避な結論であるとした。

 しかし,多くの人々はこの結論に満足しないだろう。人々が嫌悪感を抱く様な密教的道徳は,本当に功利主義の実践として適当なのだろうか。確かに,嫌悪感は直観的なものであり,それが必ずしも正しいものであるとは限らず,理論的には正当化できるものに対して人々が罪悪感を抱くことは在り得るだろう。

 この点について,シジウィックは,以下の様に述べている。

密教的道徳は得策であるというドクトリン自体が,密教のままにとどまる方が得策である思われる。または,この隠匿を保つことが困難である場合,啓蒙された少数者に限定されることが得策であるというドクトリンが,一般の道徳的規則に退けられることが望まれるだろう。かくして功利主義者が功利主義の原理に従って,自分の結論のいくつかが人類一般によって退けられることを望んでも,それは合理的であり得るだろう。(ii)

つまり彼は,規則功利主義の実践にあたって規則功利主義者は,時には自己抹消的になってでも,それ自体を密教的に,密教的道徳を行うことが得策であると主張する。

 この結論は,英国の哲学者バーナード・ウィリアムズ(Sir Bernard Arthur Owen Williams, 1929-2003)による,「人格person」を視座とした功利主義批判のなかで取り上げられた。彼の様に,功利主義の外部からの批判はすでに行われていると言えるだろう。(iii) しかし現代でも,シンガーら功利主義者は,規則功利主義の実践において,密教的道徳を密教的に行うというシジウィックの議論を受容している。(iv) そこで,本論文では,規則功利主義,および功利主義の立場から,規則功利主義の実践における密教的道徳を検討する。

 本論文は三章構成となっている。第1章ではまず,規則功利主義における密教的道徳の性質についての検討を行う。そのうえで,第2章では,密教的道徳が規則功利主義の実践において避けられない結論であるとは言えず,さらに規則功利主義者にとって,密教的道徳は必ずしも有効ではないことを論じる。そして,第3章では,密教的道徳における重要な特徴と位置付けられる隠匿について,規則功利主義,および功利主義の立場から検討する。結論では,以上の考察を通じて,規則功利主義の実践における密教的道徳に対する評価を行う。

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(i)原題Method of Ethics (1874, 7th ed. 1907)。
(ii)Henry Sidgwick, Methods of Ethics, Macmillan and Company (London), 1874, 7th ed. 1907, p.490. より引用。以下,(Sidgwick, 1907: (ページ番号))と表記する。
(iii)バーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』第6章など。1.3で再度取り上げる。
(iv)ピーター・シンガー,『功利主義とは何か』(森村進・森村たまき訳),岩波書店,2018年,120頁。以下,(シンガー, 2018: (ページ番号))と表記する。


第1章 規則功利主義における密教的道徳

1.1 規則功利主義

 まず,本論文における規則功利主義の立場を明らかにする。初期のゴドウィンらの功利主義は,「道徳的規則や義務をあまり重視せず,あくまで個々の行為に対して功利主義的な評価を下す」(v) 立場を取る,行為功利主義であった。しかし,行為功利主義は,「あらゆる自然の感情を否定し,普遍的な善を指向する計算づくの精神のために,衝動や自発性を抑圧してしまう」(vi) という批判を受けていた。例えば,行為功利主義の立場では,自分の家族への特別な配慮をすることは,各人を一人として数え,それ以上として数えない功利主義の原則に反する。したがって,行為功利主義者は,生死がかかる状況においても,峻烈な理性的立場から,功利主義に則って行動を選択し,無名な家族よりも偉大な作家を助けることを正とする。しかし,多くの場合その選択は,人々の直観に反する。人々は,自分の家族への特別な配慮や友への忠実さなどを重んじるからだ。

 確かにこれらの道徳的規則や義務は,愛情や誠実に内在的な価値を置かない功利主義では考慮されないものである。そこで,規則功利主義は,「様々な道徳的規則や義務を守ることが社会全体の幸福の最大化に貢献するかどうかを評価し,貢献すると認められる規則や義務を二次的な規則として採用する」(児玉, 2012: p.81)立場を取った。一般に,個々の行為は基本的一般的規則によって律されていると考えると,功利主義者は,個々の行為ではなく,様々な道徳的規則や義務の功利主義的価値を考え,正当化された一般的規則を,功利原理という第一原理に対する二次的な規則として採用すればよい,という立場である。例えば,「家族を守る」という道徳的規則は,その規則が圧倒的多数の人々によって採用された場合,社会全体の安定化,そして幸福の最大化に貢献するため,功利主義的に正当化される。この場合,この道徳的規則を二次的な規則として採用し,行動の選択の指針とするのが規則功利主義である。注意が必要なのは,規則功利主義において,道徳的規則や義務は,あくまで社会全体の幸福を最大化するための手段であることである。ともあれ,規則功利主義者は,間接功利主義を取る行為功利主義者(vii) と異なり,功利主義的な評価を行って意思決定をする際にも,道徳的規則や義務に対して一定の正当性を認める。そして,この「規則」については,第2章で再度検討を行う。

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(v)児玉聡,『功利主義入門―はじめての倫理学』,筑摩書房,2012年,82頁より引用。以下,(児玉, 2012: (ページ番号))と表記する。
(vi)バーナード・ウィリアムズ,『生き方について哲学は何が言えるか』(森際康友・下川潔訳),産業図書,1993年,177頁より引用。以下,(ウィリアムズ, 1993: (ページ番号))と表記する。
(vii)上で挙げた様な行為功利主義は,直接功利主義を取る行為功利主義である。児玉は,児玉聡,「功利主義」(2019年8月20日 閲覧)にみられるように,直接功利主義と間接功利主義の関係は,行為功利主義と間接功利主義の関係とパラレルであるとしている。一方で,行為功利主義者であるスマートは,「行為功利主義は,行為の正不正を行為自体の結果の善悪によって判断する見方である。」(スマート, 1973: p.9)(注8参照)と述べている。行為それ自体の意思決定に功利原理を用いることを要求する直接功利主義と異なり,行為のより遠い帰結を考える点で,彼は間接功利主義を取る行為功利主義である。この場合,判断によっては,個々の道徳的規則や義務に従う場合もあり得る。

1.2 二つの隠匿の不可避性

 シンガーは,『功利主義とは何か』第5章(シンガー, 2019: pp.109-120) において,次の様に議論している。規則功利主義者は,採用する道徳的規則をより厳密に特定することによって,規則を様々な場合に最善の帰結をもたらすものにすることができる。例えば,多岐に場合分けされた判断基準を用いれば,多くの例外を網羅することができるだろう。しかし,そのように「洗練」された道徳的規則は難解で複雑なものとなり,人々が現実的に内面化できるようなものではなくなってしまう。ここでの規則は,例外を認めるようなきめ細やかな規則ではなく,十分に明白で単純なものでなければならない。ゆえに,例外のない「絶対的」な規則が要請される。しかし,「絶対的」な規則が一般的に存在していても,功利主義者は時にそれを破らざるを得ない。シンガーは,ここでシジウィックの議論(Sidgwick, 1907: pp489-490)を引用した。「洗練」された道徳的規則は,大部分の人々が日常生活において順守するには複雑すぎて,人々に順守を要請することが悪い結果をもたらす可能性がある。また,功利主義者が「絶対的」な規則を破ることは,一般的に有用な規則への順守を弱めてしまう様な,悪い前例を与えてしまう可能性がある。

 ゆえに,規則功利主義の実践において,功利主義者は,「啓蒙された少数者enlightened few」(Sidgwick, 1907: p.490)として,人々にあることをするように教えたり助言したりする存在であるべきである。その際に,自らが現状の「絶対的」な規則とは異なる,功利主義的理論を持っていることを「隠匿」することが,功利主義的に必要である。その理論は,明るみに出れば不正な行為であっても,それを秘密にすれば正当な行為であるからだ。さらに,この「隠匿」が人々の嫌悪感を抱くものである以上,功利主義者はこの密教的道徳そのものを,人々から『隠匿』しないとならない。
以上の様に,二つの隠匿は規則功利主義の実践において不可避な結論であるとされ,そのことが密教的道徳を正当化する根拠となっている。この点については,第2章で詳しく検討したい。

1.3 密教的道徳のパターナリズム

 バーナード・ウィリアムズによると,規則功利主義における密教的道徳には,「理論と実践の区別」(ウィリアムズ, 1993: p.180)が存在する。そして,この区別は二つの階級を決定するものであるという。一つは,功利主義者からなる理論家の階級で,もう一つは,無反省にその理論を使用する人々からなる階級である。二つの階級を定めるこのような立場は,功利主義が英領インド植民地における白人エリートによる統治と重要な関係をもっていたことと一致するとして,彼はこの立場を「総督邸の功利主義」(ウィリアムズ, 1993: p.180)と呼んだ。

 確かに,シンガーが考えるように,「植民地の連想はあてはまらない。功利主義者はグローバルな観点を持っているから,……帝国主義的目標を支持しているわけではない」(シンガー, 2018: p.116)かもしれない。しかし,密教的道徳は,「総督的の功利主義」にみられるようなパターナリズムを否定しない。「啓蒙された少数者」である功利主義者は,「他の人々よりもよく知っている」(シンガー,2018: p.116)存在である。彼らは,「一般的な道徳的規則や義務に囚われている」人々に,規則功利主義の立場に則ったガイドラインを与えることで,社会全体の幸福の最大化を図る。

 密教的道徳のパターナリズムを考察するために,同じ功利主義の実践の方法として知られる,リバタリアン・パターナリズムとの比較を行いたい。リバタリアン・パターナリズムと密教的道徳は,不合理または無知な人間像を想定している点で,共通している。人々を合理的に行動させるため,様々なパターナリスティックな介入を行う。では,両者の相違点はどこにあるか。それは,情報の取り扱いにある。リバタリアン・パターナリズムは,完全情報を持たない「個々人」に(作為的であれ)情報を特定のやり方で与えることで,個々人の合理的な行動を促す。ここでの情報は,個々人の努力によって得られるものであるが,それを強制的に,特定のやり方で与えるのがリバタリアン・パターナリズムである。一方で,密教的道徳は,一つ目の「隠匿」によって,一般の人々から成る「集団」に,政策を正当化する根拠などの情報を与えないで,規則功利主義に基づく功利主義的政策を課す。この時,二つ目の『隠匿』によって「隠匿」を隠すことで,人々は政策を正当化させる理論の存在さえ知ることができない。さらに,「個々人」ではなく,「集団」に対する隠匿であるため,個々人の努力では,与えられない情報を得ることができない。いわば,「他の人々よりもよく知っている」功利主義者が,「一般的な道徳的規則や義務に囚われている」人々に目隠しをすることで,制約された情報の下で判断させる余地を与えずに,一方的に人々を行動させる。この点で,「総督邸の功利主義」と呼んだウィリアムズの議論は正しい。そして,この情報制約こそが,二つの隠匿に対する直観的な忌避感の原因ではないだろうか。

 このパターナリズムを功利主義の立場から直ちに批判することはできない。功利主義は,パターナリズムによって制限される民主主義などに内在的価値を置かないからだ。ともあれ,このパターナリズムは,規則功利主義における密教的道徳の最大の特徴ということができるだろう。したがって,第2章,第3章で詳しく検討する。


第2章 不可避性の検討

2.1 「絶対的」な規則

 1.2で見た通り,密教的道徳は,「絶対的」な規則に関する二つの問題を理由として,規則功利主義の実践において避けることができないとしている。すなわち,功利主義者が人々にガイドラインを渡す際,ガイドラインたる規則は,彼らが日常生活で適応できるくらい十分に明白で,単純なものでなくてはならないため,詳細な例外事項を設定することができないという問題,そして,功利主義者が「絶対的」な規則を破ることで悪い前例を作ってしまい,普段なら有用である「絶対的」な規則の一貫性が揺らいでしまうという問題である。

 そもそも,規則功利主義は,1.1で論じた通り,行為功利主義では排除される道徳義務に一定の正当性を認め,圧倒的多数の人々が受け入れることが社会全体の幸福の最大化に貢献すると評価されたものを,二次的な規則として採用するものである。「圧倒的多数の人々」が受け入れられるためには,その規則は十分に明白で,単純なものではならないのは確かである。「圧倒的多数の人々」には,子供から老人まで,様々な人を含むからである。

 ここで,二つ目の問題を考える前に,規則功利主義における「規則」について検討したい。スマートは,規則功利主義を「迷信的な規則崇拝rule worship」に陥ることになるとして批判(viii) する。彼は,理性によって導かれる普遍的な究極の道徳的規則に絶対的に従うことを主張したカントと規則功利主義者を結びつけて考える。そして,規則功利主義者は,究極の道徳的規則ではなく,ほとんどいつでも最善の結果をもたらす規則に絶対的に従うため,明らかに規則に従うことが功利主義の立場から不正である状況でさえも,規則に従ってしまうだろうと主張した。さらに,デイビット・ライオンズの議論を引用し,仮に規則功利主義者が規則を破らざるを得なくなった場合,彼らは規則を修正する必要に迫られる。これを繰り返してあらゆる場合に対応できる規則が完成した時,結局規則功利主義者は行為功利主義者と実践上は変わらなくなるであろう。ゆえに,規則功利主義よりも,行為功利主義を採用すべきなのだと主張した。

 しかし,1.1で検討したような規則功利主義は,カントの様な規則絶対主義とは異なる。規則絶対主義と異なる点として,規則功利主義には,常に功利主義の立場から洗練される余地がある。規則功利主義者が道徳的規則や義務を二次的な規則として受け入れるのは,道徳義務を守ることが,守らないときに比して社会全体の幸福の最大化に貢献するからである。しかし,道徳的規則や義務を守ることに内在的な価値はなく,明らかに規則に従うことが功利主義の立場から不正である状況では,規則功利主義の立場においても,功利主義者は功利主義の第一原理に従って行動する。もし,規則に従って行動することを主張したならば,それは規則絶対主義であり,彼は功利主義者ではない。

 さらに,規則功利主義者が例外的な判断を下す場合,規則をさらに複雑化させる義務はない。規則功利主義は,徹底的に規則そのものを洗練させ,究極の規則を追求する立場ではなく,あくまで二次的に規則を採用している功利主義なのである。確かに,規則功利主義者は規則を適用する際,第一原理を考慮しつつ行為をするため,行為功利主義に通じる場合もある。しかし,規則功利主義は,道徳的規則や義務を重視しない行為功利主義とは明確に異なる 。(ix)

 また,「絶対的」な規則を破った際に悪い前例を作ってしまう心配は,杞憂である。「絶対的」な規則が存在しないというのは,功利主義の立場からのみならず,直観的にも支持され得る。例えば,「絶対的」に人を殺してはならないが,末期患者に限った安楽死は認められると考える人も多い。多くの場合,規則の例外とされるのは特殊事例である。個別的で異常な状況において規則に違反することで,望まぬ拡大解釈の余地ができてしまうことを恐れるのは,無いものを恐れるようなものである。

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(viii)J.J.C. Smart & Bernard Williams, Utilitarianism : for and against, Cambridge University Press (Cambridge), 1973, pp.10-12. 注7および以下,(スマート, 1973: (ページ番号))と表記する。
(ix)もし行為功利主義者が個々の行為に対して功利主義的な評価を下す際,個々の行為が道徳的規則や義務(例えば家族への特別な配慮)を順守することによって生じる社会の幸福の増量を考慮したうえで判断するのであれば,直観との大きな齟齬という行為功利主義の問題を解決できるかもしれない(注7に挙げたような,間接功利主義を取る行為功利主義において,道徳的規則や義務を遂行する行為を重視した場合に近い)。しかし,それはライオンズの主張とは逆に,行為功利主義が規則功利主義と実践上変わらなくなっており,行為功利主義の代わりに規則功利主義を採用した方が,判断を余程効率的に行えるだろう。


2.2 反感の回避

 規則功利主義者の判断は,時に一般の道徳的規則や義務に反するものとなる。なぜなら,規則功利主義者はすべての道徳的規則や義務を採用するわけではないからである。このとき,規則功利主義者は,少なからず人々の反感を買うことになるだろう。場合によっては,人々の支持を失ってしまうかもしれない。

 しかし,規則功利主義者が密教的道徳を採用しても,この問題が解決するわけではない。まず,極端な例,つまり,規則功利主義者が二次的な規則として道徳的規則や義務を採用しているのにもかかわらず,功利主義者の観点からその道徳的規則や義務を破らなければならない場合(x) を考えよう。この場合は,2.1で述べた通り,功利主義者の判断と一般の人々の判断は矛盾しない。すなわち,この場合は,人々が規則を破ることを承知しているため,そもそも反感を買うことが無いのだ。

 一方で,規則功利主義者の判断と一般の人々の判断が矛盾するとき,すなわち人々の反感を買う可能性があるときはどのような時なのだろうか。規則功利主義者が道徳的規則や義務を規則として採用しないときを考えると,それは,一般の道徳的規則や義務が,社会全体の幸福の最大化に貢献しないときである。そのような場合,功利主義者は積極的に主張すべきである。

 例えば,サティーの例を考えよう。19世紀以前のヒンドゥー教社会において,寡婦は夫の火葬のときに一緒に焼かれ葬られなければならないという道徳的規則及び義務があった。しかし,規則功利主義者は,この道徳的規則及び義務を二次的な規則として採用しない。なぜなら,その規則は圧倒的多数の人々に採用されても明らかに社会全体の幸福の最大化に貢献せず,たとえ二次的な規則として「宗教の役割の重視」を採用していたとしても,サティーに宗教的根拠は存在しないからである。このとき,規則功利主義者の判断は,一般の人々の判断と異なる。それでも,功利主義者は,功利主義の立場から従うべきではない道徳的規則や義務を看過すべきでない。功利主義者の立場から,道徳的規則や義務を因習として積極的に非難すべきである。

 また,この際に密教的道徳を取ることは得策ではない。密教的道徳のもとでは,1.3で論じた様に,密教的道徳の一つ目の「隠匿」によって,パターナリスティックに正当化の根拠を示さずに人々に政策を課すことになる。さらに,人々は二つ目の『隠匿』によって,この「隠匿」の存在を知ることができない。このことは,逆に功利主義者が人々の反感を増幅してしまう可能性すらある。功利主義者は,その政策に対する論理的な説明ができないからだ。

 すなわち,功利主義者は,一般の道徳的規則や義務に反する判断を行うときにこそ,反感を恐れず,功利主義に基づいて正当化された主張により,積極的に人々を説得し,“啓蒙”(xi) すべきなのである。そして,人々がこれに対して批判を加えるならば,彼らも功利主義者と同じ土俵にたって,論理的に批判する必要がある。このようにして起こる倫理的な議論の重要性は,第3章でも検討する。

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(x)シンガー, 『功利主義とは何か』pp113-114で議論されているような,時限爆弾と拷問の例が好例である。シンガーも認める通り,強力な時限爆弾を解除するために拷問が正当化されるという結論は,功利主義者だけでなく,「真剣に考える人ならだれでも」(シンガー, 2018: p114)至るものである。
(xi)ここでの“啓蒙”は,「総督邸の功利主義」にみられるような上下関係を含むものではない。しかし,功利主義という理論を用いた倫理的な提案であるという点で,一般的な道徳的規則や義務よりも正当性が高い。功利主義者から見たら,それは“啓蒙”である。


第3章 隠匿と批判可能性

3.1 批判の必要性―規則功利主義の立場から

 規則功利主義者が最も気を付けなければならないことは,「迷信的な規則崇拝」を行う規則絶対主義に陥る危険性である。規則功利主義者は,採用した規則を,あくまで功利原理という第一原理に対する二次的な規則であることを忘れてはならない。そして,2.1で論じた通り,実践にあたって,採用した規則を適用することが社会全体の幸福の最大化に寄与するのか,絶えず問い直す必要がある。

 そして,場合によっては規則それ自体を洗練させることが必要になる。規則があまりに複雑化してしまうようであれば,洗練を通じて,規則を簡潔にすることも必要となる。第2章で論じた通り,すべてを網羅した規則は必要ない。さらに,複雑すぎる規則は時に,一般の人々にとっても,そして功利主義者にとっても,判断の誤りを招きかねない。特に,迷信的な規則崇拝に陥る危険性が高まる点で,避けるべき事態である。

 以上の点から,規則功利主義は無意識的に自己抹消的(xii) とならないためにも,絶えず内外から批判にさらされる必要がある。

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(xii)シンガー,『功利主義とは何か』pp.117-118にあるように,功利主義が自覚的に自己抹消的になることは批判の対象とならない。しかし,無意識的に自己抹消的に陥る場合,規則絶対主義は第2章で論じた様に社会全体の幸福の最大化に貢献しないため,功利主義的に不正であり,批判の対象となり得る。

3.2 批判の必要性―功利主義の立場から

 功利主義の発展の歴史が示してきた通り,現実に議論されている功利主義は,理想的で,真に社会全体の幸福を最大化する《功利主義》とは同一のものではない。初期のゴドウィンの結婚制度に関する主張は,功利主義的に正当化できても過激すぎたため,人々のみならず,ゴドウィン自身も受け入れなかった。なぜなら,彼の主張は,初期の功利主義からは正当化されたとしても,《功利主義》から正当化される主張ではなかったからである。「功利主義的な意識は,それ自体,功利主義が考えねばならないような対象となる」(ウィリアムズ, 1993: p.177)のであり,功利主義は多くの角度から,時には功利主義の立場からも批判され,《功利主義》への接近が試みられてきた。

 以上の点から,功利主義が批判され,洗練されることは,功利主義的に,すなわち,社会全体の幸福を最大化するために必要なのである。

3.3 二つの隠匿の問題

 規則功利主義における密教的道徳のパターナリズムを正当化しているのは,1.3で述べた通り,「啓蒙された少数者」である功利主義者は,「一般的な道徳的規則や義務に囚われている」他の人々よりも「よく知っている」存在である点である。しかしこれは,功利主義者の判断が必ず正しいということは含意していない。功利主義者は,リバタリアン・パターナリズムにおける立案者と同様,時間など資源的余裕があるために,一般的な道徳的規則や義務について批判や検討をする余裕が存在し,より長期的視野を持った分析的思考が可能であり,かつそこで功利原理という明確な理論に則って判断しているに過ぎない。彼らが完全情報と無制限の認知能力を有しているわけではないのである。彼らが規則功利主義の立場から正しく判断している確証は存在せず,さらに,彼ら規則功利主義者の判断が《功利主義》の立場から完璧であることは,現在でも多くの批判がなされている功利主義において,決してありえないことに疑いの余地はないだろう。

 しかし,密教的道徳のもとでは,一般の人々が規則功利主義者の政策を批判することはできない。なぜなら,1.3で論じたような特徴的なパターナリズムが,それらの批判を封じるからだ。人々は,二つ目の『隠匿』によって,政策を支えている理論を知り得ないので,一つ目の「隠匿」によって正しい根拠を提示されずに課された政策を,功利主義の立場から批判することができない。つまり,人々は功利主義者と同等に議論をすることができず,功利主義者を納得させられるような批判を行うことができない。例えば,功利主義者に対して人々が平等論を唱えても,功利主義において平等に内在的価値は存在しないので,功利主義者は全く聞く耳を持たない。結果,2.2で論じた様な,同じ土俵における倫理的な議論が発生しなくなる。密教的道徳を採用した場合,3.1や3.2で検討したように,規則功利主義並びに功利主義に必要とされる「批判」が行われなくなってしまう。

 以上の様に,一つ目の「隠匿」によって,人々に対して一方的に政策を課し,二つ目の『隠匿』によって批判を封じる密教的道徳は,規則功利主義者にとって適当な手段ではなく,さらに,功利主義の観点から,不正である。


結論

 本論文では,密教的道徳を密教的に行うことが,規則功利主義の実践として適切ではないことを示そうとしてきた。各章で得られた結論をもう一度確認する。

 第1章では,一般的な規則功利主義の理解を,行為功利主義との比較から整理した。次に,二つの隠匿,人々に与えられるガイドラインの根拠が規則功利主義であることを「隠匿」すること,そして,密教的道徳の存在自体を『隠匿』することが不可避であるとするシジウィックの議論を整理した。そのうえで,「総督邸の功利主義」とも揶揄される,密教的道徳にみられる特徴的なパターナリズムを,リバタリアン・パターナリズムとの比較から明らかにした。すなわちそれは,集団に対して情報を隠匿すること,人々に対する目隠しであった。

 第2章では,第1章で論じた密教的道徳を正当化する根拠とされる不可避性を検討した。「規則」についての検討を通じて規則功利主義と規則絶対主義の違いを明らかにすることで,規則功利主義者は,規則をあくまで功利原理という第一原理に対する二次的規則として採用しているにすぎず,規則それ自体を洗練させる立場ではないことを示した。さらに,「絶対的」な規則が一般にも存在しないこと,一般的な道徳的規則や義務に反する判断を行う際に功利主義者の取るべき立場を考えることで,規則功利主義の実践において,密教的道徳をとる必要はないことを示した。そして,密教的道徳の特徴的なパターナリズムの問題点として,人々を論理的に説得できない点を指摘した。

 第3章では,密教的道徳が規則功利主義にとって適当ではなく,さらに功利主義にとって不正であることを論じた。規則功利主義,功利主義の両方の立場から,絶えず批判にさらされることの必要性を示したのちに,密教的道徳が批判可能性を奪ってしまうことを論じた。すなわち,密教的道徳の特徴的なパターナリズムの問題点として,批判可能性の喪失を指摘した。

 以上の議論より,規則功利主義者の実践における密教的道徳に対する評価を行おう。密教的道徳は,規則功利主義の避けられない帰結ではない。そのうえで,特徴的なパターナリズムという性質をもつ密教的道徳を,密教として『隠匿』してまで行うことは,我々に直観的な嫌悪感を抱かせるのみならず,規則功利主義,並びに功利主義の観点から,規則功利主義の実践として不適切である。


参考文献一覧

・児玉聡,『功利主義入門―はじめての倫理学』,筑摩書房,2012年

・ピーター・シンガー,『功利主義とは何か』(森村進・森村たまき訳),岩波書店,2018年

・バーナード・ウィリアムズ,『生き方について哲学は何が言えるか』(森際康友・下川潔訳),産業図書,1993年

・J.J.C. Smart & Bernard Williams, Utilitarianism : for and against, Cambridge University Press (Cambridge), 1973.

・Henry Sidgwick, Methods of Ethics, Macmillan and Company (London), 1874, 7th ed. 1907.
 ただし,テキストは以下のサイトで閲覧した。
 “Methods of Ethics,” The Project Gutenberg EBook of The Methods of Ethics, by Henry Sidgwick, Project Gutenberg. (2019年10月13日 閲覧) 


・児玉聡,「功利主義」(2019年8月20日 閲覧)


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