見出し画像

それでも貴方はTwitterを続けますか?―〈コミュニケーション〉について

〈追記〉PDF版をつくりました

 少し長くなってしまってnoteだと読みづらいので、PDF版を用意しました。noteに書いた文章を底にしており、強調の太線などは基本的に反映していません。あくまで、noteの文章がメインであり、今後も加筆修正するときは、最新版ではないかもしれませんので悪しからず。

はしがき:新しい生活様式のなかで

本論には何も関わらないので、第2章まで飛ばしてもらっても構わない。

 投稿日から一年と13日前、中国湖北省武漢市の保健機関が、原因不明の肺炎患者を初めて報告した。新たな感染症は世界中に大流行をもたらし、高齢者の重症化リスクが高く最悪死に至ることが明らかになると、公衆衛生上の要請から様々なかたちで個人への介入が行われるようになった。そして、「新しい生活様式」や「ニューノーマル」といった言葉によって、日常生活の形式は、これまでとは明確に断絶されたものであることが強く意識されるようになった。

 様々な変化があった。それをただ箇条書きにすること、記録としては意義のあることだろう。しかし、とりわけ大きな変化を挙げるとすれば、複数人が、同じ「場」にいること、これ自体が感染リスクを高める行為として、忌避されるようになった。人と会うこと、 "対面" で会うことが、「善」、むしろ「悪」とみなされるようになった。

__________

 歴史上、人類が世界中を移動するようになってから、感染症の大流行は繰り返し発生してきた。約100年前も、第一次世界大戦末期にアメリカで感染者が見つかってから世界中に新型インフルエンザ「スペインかぜ」が拡大した。感染症対策のため、例えばロンドンでは、マスクの着用や接触の回避などを呼びかける公衆衛生策、つまりいまと変わりない様な対応も講じられたそうである。これは、総力戦を機に国家が私を統制しうる権力を集めていたからできたことでもあったのだろう。

 しかし、インターネットが普及しコンピューターを家庭で一人一台持つような現在では、100年前にはなかった「オンライン化」の波を引き起こした。テレワークやオンライン授業、これまで同じ「場」に集まらざるを得なかった活動が、オンラインによって代替されることとなった。同じ「場」に集わなくても済むようになり、感染の抑止に一定の効果を収めたといえよう。

__________

 それでも、オンラインは全てを代替できたわけではない。特に、私的場面における人と人との交流、すなわち日常的なコミュニケーションにおいて、オンライン化はあまり役に立たなかった。

 代わって筆者の心の支えになっていたのが、SNSであった。この一年弱の間、失われたコミュニケーションを求めてか、SNSの依存度が増えた。Twitterの一年、と言っても過言ではないくらい、(使用時間はどうかわからないが少なくとも)使用頻度が昨年の比にならないものとなったと自覚している。

 ここで改めて問わねばならないのと考えるのが、Twitterの使い方である。Twitterはコミュニケーションツール足りえるか。コミュニケーションの構造を考えた上で、どのように用いるのが妥当であると言えるのだろうか。もちろん、ルールの様に人に押し付けるものではないし、何より利用法が個人に委ねられているのがSNSの自由なのだと思っている。しかしだからこそ、納得の行くTwitterの使い方というものが何か、これまで漠然と考えてきたものを、ここで整理をしたいと思う。そしてその結論を先に出しておくと、Twitterは不健全で百害あるが、一利も確かに認められるというものである。


第1章 はじめに

まだ前書きなので、第2章まで飛ばしてもらっても構わない。

 ここ数年、大学生のTwitter利用について様々な研究者が関心を示しており、統計分析などに基づく論文をオンライン上で簡単に読むことができるのは、流石といったところである。

 先行研究の知見を少し紹介しよう。

・Twitterを長時間利用するなかで知人の情報を受信することは、人間関係に軋轢を生むことにつながり、やがて利用時に不満を感じるようになり、心理的ストレスが増大する都築、2019
・Twitterの性質は人生の積極的態度形成に負の影響を及ぼし、夢や目標、向上心、時間の重視などを重んじる人は、Twitterの利用が少ない(一方で、Instagram利用者には逆の傾向、すなわち正の影響がみられると指摘されている)(飯田、2020
・Twitterを使用する大学生ほど、多くの社会的比較を行い、その結果友人関係満足度が低下する叶、2019


 Twitterの利用が大学生に負の影響を与えるというこれらの研究結果は、大変耳に痛い話であるし、部分的には支持されうるかもしれない。しかし、これらの研究は主に研究者が「自らの授業の履修者」を対象に行ったアンケートを基にしているようなものであり、いわば限られた集団内の分析であることがほとんどである。ことSNSについては、閉じられたコミュニティ内で独自のルールが構成される可能性を考えると、疑問の余地が残されており、無批判に議論の前提としてしまってよいものか。この点については、正直統計や心理学に疎い筆者にはよくわからないので、疑わしいという適当なコメントを付した上で、今回はあまり取り上げないことにしよう。

__________

 では、Twitterを何のために使うのかという点についてはどうか。同様の先行研究を読んでみると、大学生がTwitterを使う理由として挙げられているのは、一つに情報収集のツールとして、そしてコミュニケーションツールとしてである(都築、2017)とされている。

 しかし、このようなアンケート調査を用いた研究には落とし穴があると、筆者は耳にしたことがある。アンケートの回答はあくまで主観的な印象であって、内実は異なる場合があるということだ。つまり、Twitterの利用目的として筆頭に挙げられている「情報収集」は、Twitter利用者が自分の行為を少しでも正当化するための詭弁である可能性を否定することができない。

 絶えず更新されるタイムラインのなかから、真に見るに値する情報を発掘できる確率は、1%を余裕で下回る。それはいわば、当たりが出ることを信じてレバーを操作し続けるパチンコ、ボタンを押し続けるSSRガチャと変わらない光景である。「情報収集」と答えるのであれば、本当に有益なアカウントのみをフォローし、みずからが発信する必要などないのではないか。そう考えると、「情報収集」はいわば外向きな看板であり、利用目的の本命は、2つ目のコミュニケーションツールとしてなのではないか。

__________

 本記事のアウトラインを示しておこう。まず第一に、本記事の目的は、Twitterにおける〈コミュニケーション〉の性質を描くことにある。先に述べた通り、他者にTwitterの使い方を教授するなど驕った態度を取るつもりは微塵もない。ただ、ここで素描した性質は、Twitterで起こる現象を説明するにも役立つし、何よりTwitterをいかに使うかということを、立ち止まって考えてみる上でも役立つだろう。この性質を踏まえて、一例として「界隈」という事象について説明を試みるとともに、Twitterのあり得る使い方として、インスタントで開かれた思考の沈着のため、自己の負の感情の客体化のため、そして他者の存在の感覚を得るためという三点を導いてみたいと思う。

 第1章では戯れに先行研究などを参照したが、ここからは私の漠然とした思考を連ねたものに過ぎない。本来ならばコミュニケーション論などの積み上げを踏まえながら議論するのが適切なのだろうし、個人的には関心がある分野であるが、怠慢によりほとんど学習できていない。よって、余計な出典明記などはせずに、科学的とも思弁的ともいえない、レポートで書いたら一発で不可を食らいそうな考察を記させていただくが、了承していただきたい。もちろん、批判のコメントは大歓迎である。

本章の参考文献(物好きのために)
都筑学、宮崎伸一、村井剛、早川みどり、永井暁行、飯村周平、2017、 「大学生におけるLINEやTwitterの利用目的とその心理についての研究」、『中央大学保健体育研究所紀要』、35: 3-32.
都筑学、宮崎伸一、村井剛、早川みどり、永井暁行、飯村周平、2019、「大学生におけるSNS利用時における心理的ストレスの研究―LINE,Twitter,Instagramの比較を通じて―」、『中央大学保健体育研究所紀要』、36: 33-59.
飯田昭人、2020、「大学生におけるSNS使用状況と連帯感,社会関係資本,人生に対する積極的態度との関連 : LINE,Twitter,Instagramを検討材料として」、『北翔大学短期大学部研究紀要』、58: 1-12.
叶少瑜、2019、「大学生のTwitter使用、社会的比較と友人関係満足度との関係」、『社会情報学』、8(2): 111-124. 
参考文献から漏れたけどちょっと面白いリスト
村上信夫、2018、「スマホ利用による若者のコミュニケーションの変容(上) : SNSは若者の感性を変えたのか」、『茨城大学人文社会科学部紀要. 人文コミュニケーション学論集』、2: 145-167.
村上信夫、2018、「スマホ利用による若者のコミュニケーションの変容(下) : SNSは若者の感性を変えたのか」、『茨城大学人文社会科学部紀要. 人文コミュニケーション学論集』、3: 51-70.
東京大学、「学生生活実態調査」.

第2章 Twitterを用いたコミュニケーションの性質

-第1節 文字コミュニケーション

☆ここは本題(本章第2節)の前置き☆

 同じ「場」に集まって行われる、いわゆる "対面" コミュニケーション( "対面" という言葉自体、 "三密" と同じくらい新たな言葉である様に思えるが、この余白はそれを書くには狭すぎる)とTwitterの一番の違いは、主に文字を用いてコミュニケーションを図ることにある。そしてこれは、Twitterと他の典型的なSNSと比べたときの重要な特徴ともなり得る。特に、LINEやInstagramなど、画像のやりとりをするコミュニケーション(特に後者はその性質が顕著である)との差別化に寄与している点として考えることができる。

 本節では、ひとまずTwitterに限らず、文字のみを用いたコミュニケーションの一般についての考察を行う。コミュニケーションには情報の「発信者」と「受信者」を想定することができ、情報のやり取り、発信と受信が噛み合い、それらを相互に担うことによって発生するものである。しかし、本記事では受信者が不明確であることを特徴とするTwitterの考察をメインとするため、ひとまず「発信者」としての側面に絞って議論を行いたい。文字コミュニケーション(第1節)とTwitter特有の〈コミュニケーション〉(第2節)の二階に分けて考察を深め、そこから導かれた特徴を合わせれば、Twitterを用いたコミュニケーションの性質に迫れるはずである。

__________

・口頭コミュニケーションとの比較

 文字コミュニケーションは、言うまでもなく、文字を用いることによって行われる。人は文字を発明して以来、様々な活動や思考を記録するようになった。長い目でみたとき、この記録は人類の過去の活動を紐解き、過去の知の上に立って物事を明らかにしていくために、不可欠なものであったと言えよう。今でこそスマートフォンやICレコーダーを用いた録音が可能だが、それはわずか100年と少し前に発明された新たな形態であり、依然として文字に記録することの意義は広く認められている。

 コミュニケーションという比較的短い時間でやりとりが行われる場合であっても、「記録」の機能が果たす役割は大きい。「記録」によって、情報は時間を超えて伝わる。過去のやり取りをさかのぼることが可能となり、その場に居合わせない第三者によって見られる可能性が生じる。

 (またここでは、口頭コミュニケーションに求められるようなレスポンスの速さ、タイミングの概念が希薄であり、情報の「発信者」に多くが委ねられている。「受信者」は、ずれた時間においてその「記録」を見ることになるため、「発信者」の意図を超えた解釈の余地が「受信者」に与えられるという点を指摘することができる。この余地に対して別のことを述べることを思いついたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。 ひとまず別の機会に譲ろうと思う。)

 加えて、情報を文字化するには時間がかかる。口頭では口で発話したものがそのまま相手に届くが、文字を用いるには、手を動かして文字を筆記または入力する必要がある。この手間を経る過程で、口頭以上に思考が介在する隙間が生まれ、また、思考それ自体の整理が促される。さらに、「記録」の意識が情報の発信者に強く持たれている場合は、文字で表現する以前に内容の吟味が図られることになるため、この傾向は大きくなることだろう。そうでなくても、些細な情報でさえ、発信の際に文字によって記録されるのだから、口頭では頻繁に発生する「軽率な発言」や「他愛もない発言」が、文字では起こりにくいということが指摘できる。

__________

・画像コミュニケーションとの比較

 文字を用いると、画像と比べて伝達できる情報量が縮減される。これは、じれったさといった不便な面もあるが、個人情報の開示を少なくすることに役立っている。もちろん、全ての画像が個人情報を公開し、全ての文字が個人情報を隠すというわけではない。少なくとも、文字は画像よりも個人情報を覆い隠すことに使いやすいという話である。

 例えば、文字を使うと発信者の性別すら覆い隠すことが可能である。日本語の場合それを示すことばとして一人称の違い(私/僕/俺)やいわゆる女性語(かしら/のよ/わよ)が存在するが、文字に記すにあたってそれらを意図的に用いないことは容易に可能であるし、逆にあえて用いるといったこともまた可能である。つまり、属性によって典型的に異なり得る所有物(身体、言葉遣いなども含む)が開示され、ここから個人情報の開示に不意に結びつくリスクが、文字を用いた場合は少ない。さらに、情報量を縮減させる過程は、発信者の裁量によるものが大きいため、意図せず情報を開示してしまうリスクが大きく減少する。

 これは、文字コミュニケーションにおけるアバター化につながっている。発信する情報、言葉遣いなどを「発信者」がコントロールすることで、複数のアバターを作り出すことができる。画像コミュニケーションだと、少なくともその人物の表面に現れるものについて使い分けを行うには、片手間ではできない様なコストを要することが避けられない。一方で文字コミュニケーションであれば、「キャラ」を意識的に使い分けることが可能になり、容易に自己表現をする手段の一種となり得る。つまり、様々な属性を切り分けて配置することが可能となるのである。

__________

・文字コミュニケーションの性質

 以上の比較から文字コミュニケーションの性質を導くと、次のようになる。

①情報が容易に記録される
②思考が介在し、その過程で思考が整理される度合いが高い
③情報量が限られる

 このうち、①と③は対立する関係にある。むしろ、文字コミュニケーションの場合、③の様に情報量が限られる反面、①によって一つ一つ堆積していくことから、結果的に情報量は大きなものになる。(まあこれは、文字が情報を隠匿するうえで万能ではないよ!気を付けよう!!というはなし)

 これらの性質を持つ文字コミュニケーションは、結果として、情報の固定化、客体化、沈着化をもたらす。情報が個人の内部にとどまっている限りでは、それは揺らぎ、変化し、個人的なものでしかない。しかし、文字として外部に表れることで、その情報は性質を大きく変える。まず、文字化された情報はそれ自体によって変化することがない。考えているうちは移ろいゆくものであっても、それを一度外に出してしまえば、また誰かが消したり改変したりしない限りは、固定化される。固定化された情報は、客体化された情報である。その情報は誰かに触れられることで、たとえ自分の出した情報であっても、それは主体に何らかの作用を与えるようになる。こうした不可逆的なプロセスを経て、情報は沈着していく。すなわち、「紙にインクが沈着する」という実体的な側面はもちろん、沈着した情報は個人に作用するなかで「忘れ去られる」ことが難しくなるという、観念的な側面についても述べることが可能なのである。

__________

 口頭や画像を用いたコミュニケーションの場合は、文字コミュニケーションとは違った現象が起こるか、たとえ同一の現象でも、その程度は文字を用いたそれに敵わない。口頭の場合、一度出た言葉が相手に伝わるとそれは何かしらの反応を引き起こすものの、その内容が固定的なもので吟味される対象となることはあまりなく、むしろ会話の流動性の方が重視される。さらに、自分の発話した内容を反照させて自分に作用するという程度も低い。「話しながら思ったこと」がありうるとはいえ、自分の話している声に自分の耳を傾けるというのはあまりに奇妙なので、それは「話すために考えるなかで思ったこと」として捉えるのが良いだろう。

 画像の場合は、先に述べた通り情報量が多いことから、発信者の意図を超えた情報が含まれている場合がある。時間空間を切り取るという点において画像は情報を固定させているが、これまで話してきた意味においては、むしろ切り取ることで情報を流動化させているともいえる。もともと客体の情報に、主観的な解釈を加えることで主体化し、それを発信によって切り離すという面倒な過程を含んでいるので、文字コミュニケーションとは全く異なる機制が働いているということができる。

__________

 ところで、情報を文字化するコストが大きかった時代には、固定化、客体化、沈着化は文字コミュニケーションの大きな武器となり得た。記録や議論、思索のために、面倒なコストを払ってでも情報を文字化しようという動機が働いたのである。

 しかし、コンピューターとインターネットの普及で気軽に文字コミュニケーションが取れるようになると、これらの特徴が、むしろ煩わしくなる現象が起こるようになった。口頭であれば成立するような雑談や呟きが、逐一固定され、客体となり、沈着するのが文字である。ふとした情動ですら、無機質な文字にされてしまう。そうすると、そこには思考が介在し、一時的な情動と相いれないものとなってしまう。

 口頭の様な気軽さで、文字コミュニケーションを行いたい。この希望を叶えてくれるのが、巷で観測することができる、「テンプレ」的な表現である。この現象については、第3章で更なる考察を付したい。


-第2節 Twitter〈コミュニケーション〉

☆ここからが本当の本題☆

 第1節では、「文字コミュニケーション」一般の性質として、情報が記録されること、文字化の過程で思考が介在する余地が大きいこと、情報量が限定されることを挙げ、ここから情報の固定化、客体化、沈着化が起こることを示した。Twitterを用いたコミュニケーションも「文字コミュニケーション」の下位にある一類型であるので、ひとまずこれでTwitterの性質の一部を明らかにしたことになる。

 ここまで示してきたものは、手紙やメール、LINEなどのチャット、さらには学術論文に至るまで、様々な形態をとりうる「文字コミュニケーション」の性質である。しかし、こうした分析手法を取ると、一般化された記述をすることが可能だが、個別の形態の差異は排除されることとなる。ここからは、Twitterが他の[一般的な]文字コミュニケーションと比べた時に挙げられる特徴(ただし、Instagramなど、特定の画像コミュニケーションと重なる特徴となる場合もある)を二点(①発信の対象、②応答可能性)を採り上げることで、さらなる深みに迫っていきたい。

__________

・発信の対象:文字コミュニケーションの3類型

 手紙やメール、LINEの個人チャットは、その宛先に送信されて、届く。LINEのグループチャットや掲示板は、少し性質が違えど、明確なグループ内または特定のコミュニティ内に送信されて、集団に届くものである。

 一方で、Twitterは送信先が「フォロワー」であるものの、それは特定の領域を持つものではない。公開アカウントであれば無数のユーザーを相手にすることになるし、非公開アカウントであっても、フォロワーのなかには多様な属性の人が存在することになる。たとえ属性毎にアカウントを分けるなど便宜を図ったとしても、あなたのフォロワーにそのルールを押し付けることはできない。フォロワーという領域は、主観的にしか存在し得ない。

 この意味で、メールや個人チャットは【閉鎖性】があり、Twitterは【開放性】があると言えるだろう。(ちなみにこの特徴は、画像コミュニケーションであるInstagramにもある程度当てはまる。)

画像1

__________

・応答可能性:グラデーションの存在

 各種の文字コミュニケーションツールに認められる異なる形態を表したものが、上の概念図である。Aが発信した情報は、メールやグループチャットなどであれば、個人または明確な領域に届くだろう。一方、Twitterの場合、Aは漠然としたフォロワーに投げかけることになり、特定の誰かまたは集団を念頭に置いた投稿であっても、当人に届くかは不明である。

 このTwitterの「発信対象」という性質から、直ちに2つ目の性質が導かれる。メールやグループチャットなどであれば、情報を受け取ったB、またはグループ内の誰かがAに何らかの反応を返してくれるはずである。少なくとも、時間的に後に為されるあらゆる発信行為は、Aの発信した情報が個人やグループに届いていた後に為されるものであるという了解が存在している。

 一方、Twitterの場合は、誰にどのような情報が届いているか分からないため、反応可能性の不確実性が高くなる。タイムラインに絶えず流れる情報の一つとなるので、まず目に届くかすらわからない。また、タイムラインに張り付いていたり全て確認したりしているフォロワーが相手であっても、それに対する応答には、以下に見られるような「明示性」についてのグラデーションが存在する。

Twitterの応答形式のグラデーション
[明示] リプライ>承認(いいね)≒エアリプ>共通の話題 [非明示]
※そもそもある投稿を目にした時の反応は、「何の応答もしない」(「応答」に含まれない、最も非明示的な形態)が標準であることには注意しなければならない。

 このうち、「リプライ」と「共通の話題」がどの程度のものか確認しないと、ただTwitterの応答形式にはグラデーションが存在することを示したにすぎないので、確かめていこう。

 まず、Twitterの「リプライ」は、メインの投稿に対する従属関係が弱い。これは、一般的なブログのコメント欄が本文に従属したものになっていることとは対照的である。Twitterの場合、機能的にはあくまでメンション付きのツイートであり、メインの投稿と同等な機能を持ちうるので、単独でいいねやリツイートの対象となり得る。また、他のフォロワーからも容易に視認されるようになっており、【開放性】という特徴は失われていない。つまり、リプライであっても、メールやグループチャットに見られるような高い明示性には及ばないのである。

 また、「共通の話題」についてのツイートをすることで、非明示的ながらも、Aが発信した情報を前提としていることを暗にほのめかすことができる。しかし、メールや個人チャットはもちろん、グループチャットや掲示板であっても、共通の話題を有していることがそもそもの所与と為されている所であり、Twitterの様にまったくバラバラな内容が同じタイムラインに絶えず出てくることがまず特異であると言えよう。

 むしろ、「共通の話題」が応答形式の一種に含まれているということは、反応の一種として、そもそも「何の応答もしない」(「応答」に含まれない、反応の最も非明示的な形態、反応を意図的に棄却する「無視」とは異なる)が存在しているということである。そして、注釈に示した通り、「何の応答もしない」が標準の反応であるとされていることには注意しなければならない。

__________

・〈コミュニケーション〉=コミュニケーションもどき

 ここまで、Twitterに固有な2つの性質、すなわち「発信対象の漠然性」と「応答可能性の不確実性」を指摘してきた。第1章に記した通り、Twitterはコミュニケーションツールの一つとして認識されている。しかし、その性質が示すところによると、Twitterは、発信者と受信者の存在という情報伝達の前提を覆すものである。すなわち、Twitter〈コミュニケーション〉は、複数の人物が情報をやりとりするコミュニケーションとして不完全な、いわば「コミュニケーションもどき」でしかなかったのではないか。

 ここで、ツイートは純粋な独り言(自分自身で完結している情報)であって、微塵もコミュニケーションを意図していないという言説をあらかじめ否定しておきたい。先述の通り、Twitterは文字コミュニケーションであり、情報の発信にはコストがかかる。そのコストを払って発信した情報は、誰かに見られる可能性がある。一方で、見ている誰かにとっては、「独り言」とそうでないものの区別は付かないから、それが「独り言」を意図したものであっても、何らかの反応を引き起こす可能性がある。しかし、ここでTwitterの性質を考えると、その反応には「何の応答もしない」という最も非明示的な形態をとる可能性が大いに含まれており、発信者はその種の反応を認識することができない。したがって、発信者には絶えず「読まれるかもしれない意識」が存在することになる。この時点で、ツイートは自己完結性が無くなるから、純粋な独り言で無くなってしまう。フォロワー0人の非公開アカウントでない限り、この言説はただの欺瞞でしかない。

 「つぶやき」というTwitterの日本語訳は、この「読まれるかもしれない意識」を反映した妙訳である。口頭でのつぶやきも、「独り言」と区別される場合は、「誰かに聞かれているかもしれない意識」のもとで行われる。それでも、Twitterは文字コミュニケーションであるから、どうしても口頭コミュニケーションと異なる性質を持ちかねないことには注意が必要である。

 反応の不可視性から導かれる「読まれるかもしれない意識」、これが発信者に反応の予測と、応答に対する期待(すなわち、承認欲求)を植え付け、発信時点で双方向の矢印を念頭に与えてくれる。理想的なコミュニケーションは、二者の間で双方向の矢印が成立することでできあがるとすると、Twitterの場合、発信者Aにとっては〈コミュニケーション〉が成立しているものという感覚が持たれるようになる。これを図示すると、次のようになる。

画像2

上:理想的なコミュニケーション
下:Twitter〈コミュニケーション〉

 それでも現実に目を向けると、〈コミュニケーション〉は、理想的なコミュニケーションとは乖離した数々の想定や予測、欲求から成る想像物にすぎない。つまり、〈コミュニケーション〉はコミュニケーションもどきでしかありえない。これを「つぶやき」と呼ぶことで、Twitterがコミュニケーションツール足りえるか否かの疑問を棚上げすることに一定の成功を収めていることは認めよう。残念ながら、以上の整理によって、Twitter〈コミュニケーション〉は、ただのコミュニケーションもどきでしかなかったという事実が明白となってしまったのである。


第3章 何が起こっているのか:「界隈」という現象

 Twitterを用いたコミュニケーションの性質を分析するために、文字コミュニケーションとしての特徴と、Twitter固有の特徴の二方向から考察を進め、後者では「コミュニケーションもどき」という結論を導いた。ここからは、ここまで見てきた数々の性質を応用し、Twitterでみられる「界隈」という現象について、説明を試みてみたい。もし「界隈」について端的な説明ができたとしたら、ここまで行ってきたTwitterの性質に関するについて、ある程度の必要十分性を保障してくれるものとなるだろう。

__________

 なぜ「界隈」に着目するのか。【開放性】を一つの特徴とするTwitterにおいて、何らかの集団を作ろうとする動きが「界隈」である。この一見逆説的な現象において、一体何が起こっているのだろうか。

 まず、「界隈」は集団であるとはいえ、あくまでTwitter上の存在であり、【開放性】を内包している。その境界は曖昧であり、内部は緩い連関で結びついている。「界隈」の成り立ちは、何らかの共通属性を要求する。第2章第1節の画像コミュニケーションとの比較のなかで、属性を切り分けて配置できる「アバター化」を指摘したが、典型的にはプロフィール欄に特定の属性(例えば大学名や趣味など)を文字化して配置し、他者に向けて表示する。この様にして結びついた人びとは、共通属性をもとに「界隈」を形成する。

 初期の「界隈」は非常に緩い連帯である。しかし、そこで行われるのは「コミュニケーションもどき」であるから、時間が経てば自然と深まっていく様な関係でもない。そうすると、繋がりを強固にすべく、他に共通要素を見出しに行くことになる。

 その結果、共通の要素をもとにした共通の話題を繰り返すことになる。例えば、「界隈」の誰もが知っている特定の人物を弄る行為がこれに該当する。さらに、突発的に行われても安定性を保つことができないため、定期的に繰り返す必要が生じてくる。そうすると、毎度思考を介在させても意味が無いので、「テンプレ」化した投稿が頻発するようになる。「界隈」内部で一種のコードの様に扱われる「テンプレ」は、「界隈」の【開放性】を【閉鎖性】に仕向ける役割を持つようになる。また、「テンプレ」化によって〈コミュニケーション〉で伝えられる情報量も激減し、正統なコミュニケーションとの乖離が進むことになる。結果、「界隈」は衰退の一途への自滅を辿ることが自明となる。

 ちなみに、右翼や左翼、陰謀論者(コ口ナは風邪!など)といった特定の信条をもとにできる「界隈」も存在する。すなわち、「界隈」という集団を作ることで、度々議論されているような、「エコーチャンバー」といった現象を発生させているのであるということもできるが、これも余白が足りないので、別の機会に考察することにしよう。


第4章 処方箋:Twitterの使い方を考える

 ここまで読んできた少数の読者にとっては、Twitterに費やす時間がいかに空しいか、散々思い知らされているはずであろう。だからといって、目の前に無料で提供されているTwitterというサービスを、全面的に否定して一人だけ禁欲的に使わないというのも何だか落ち着かない。問題があるなら使わなければいい、というのは最終的な解決になり得ない。この事実は到底否定し難い。

 本章では、これまで長々と論じてきた点を踏まえて、Twitterの効果的な使い方とその注意点を考えたものを、簡潔に並べてみたい。といっても、情報収集とコミュニケーションツールという言い訳が封じられてしまった以上、ここに書くものは一般的とは言えない使い方であることは留意されたい。

__________

①思考の沈着

 Twitterはひとまず思考を沈着化してみることに用いることができる。何かを考えついたとき、それを文字に沈着してみることで、次の思索に移ることができる。さらに、Twitterは【開放性】を持つから、運がよければ誰かの応答を得ることができる。ふと思いついたけど、大々的に発表するようなことでもない、そうしたときにインスタントに用いることができるのが、Twitterの利点なのである。

 一方で、この様な使い方をするときには、Twitterの限界を念頭に置いておく必要がある。一つにTwitterの文字数制限がある。文字数の範囲で緻密な思考を行うには限りがある。どうしても断片的なものに成らざるを得ないので、それらを繋ぎ合わせる別の場が求められる。

 また、応答はあくまで可能性であり、期待する程度のものではない。もし誰かの明示的な反応を期待したいのであれば、それはTwitterでやることではない。いずれにせよ、別の場を用意しておくことが肝要である。

__________

②負の感情の客体化

 何か自分のなかにネガティブな感情を抱いたとき、Twitterで客体化してみることは有益である。つまり、ネタにしてみるのである。それが思ったよりも大したことのないことがわかるかもしれないし、誰かが承認を与えてくれればそれは慰めとなる。自分で抱え込まないようにするために、気軽に使用することができるのが、Twitterの利点なのである。

 繰り返しになるが、承認を目的化してしまうのは、可能性に賭けることになるからやめるべきである。また、真の解決を図りたいのであれば、誰かに相談した方が良い場合もある。あくまでインスタントに、文字化の効用を利用するという目的のもとで、「とりあえずツイートしてみる」という方法が役立つのである。

 もし率直にぶちまけることが恥ずかしいのであれば、「テンプレ」的な表現を用いてみることがおすすめである。何であれ、「うおおおおお」とか「カス!w」とか「草」とでもツイートしておけば、思い悩んでいたことが馬鹿らしく思えるようになってくる。冷静に考えてみるうえで、応急処置くらいにはなるだろう。

__________

③存在の感覚

 最後に、「コミュニケーションもどき」を活用する方法はないか考えてみた。Twitterは、他者がそこに「いる」という感覚を与えてくれる。Instagramは他人の日常を切り取っているが、Twitterは他者の思考を切り取る。ツイートがある限りは、その人はその場に「いる」のである。なぜなら、誰かが〈コミュニケーション〉を想定してツイートを行う(コミュニケーションもどきをする)とき、そこに何かを考えた誰かが「いる」からである。

 この感覚が重要なものと感じられるのは、相当に寂しいときである。もっとも、オンライン化によって「場」から排除されている現状は、ほとんど誰にも会うことのない、相当に寂しいときである。ほんのわずかの、「いる」という感覚が心の慰めになるのであれば、他に代替手段がないときに限って、この目的においてTwitterを利用してもよいのではないか。

 「いる」という微弱な感覚は、満足を与えてくれるものではない。それゆえ、いつまでも満ち足りないまま微弱な刺激が与えられ続ける中毒性をもたらす危険性(Instagramの様な「承認欲求」とは異なる)も指摘できる。それでも、遠く会えない旧友、ネット上でしか知らない知人、そして他者から隔離された環境下で、友人の存在の感覚を得られるTwitterは、もう少しお世話になりつづける様な気がする。嬉しいこと、楽しいこと、内輪なこと、そうしたものをツイートしたときに貰える「いいね」が、ちょっとした喜びになっているのだ。まだまだTwitterはやめられない。


おわりに

 noteに文字に書くということは、思考を固定化し、客体化し、沈着化させる行為に他ならない。さらに言えば、自分のなかで思考を消化し、吸収していく過程でもあった。

 この記事の構想を整理し、本文を書いていくここ数週の間に、自分のTwitter利用法は大きく変化した。Twitterに対する態度を改め、自分の納得できる利用法を実践する場としてTwitterを用いている。多少の誇張をしておくと、何となく感じていた罪悪感が減るとともに、失われていた豊かさを取り戻したかのような満足感を得ることができている。

 私たちデジタルネイティブ世代にとって、SNSと良い付き合いをすることは、生きていくうえで避けられない。無批判に否定するのではなく、自分にとって最も望ましいやり方を模索すること、これが重要なのではないだろうか。

 本記事が、「新しい生活様式」以後、他者との交流の機会が激減して辛い思いをしている皆さんの慰めになれば幸いである。


謝辞とお詫び

 本記事は、GUT(東大幻想郷)アドベントカレンダー2020の12月12日の記事として書かれました。素敵な機会を提供してくれたおかげで、この様な考察をまとめることができました。心から感謝します。

 投稿日が12月21日になっているのは、ごめんなさい。私の怠慢です。アドベントカレンダーって知ってる??とキレられるべき存在に、寛大な姿勢を示してくださった企画担当の方には頭が上がりません、というか土下座です。コミュニティの緩さに甘んじて、Twitterでたまに音楽愛をつぶやくくらいですが、これからもよろしくお願いします。メリークリスマス、そして良いお年を!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?