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ヨガの聖者が明かす!幻想の実態とは?


・幻想に閉じ込められている私たち

こんにちは。ふりだやです。 (^ ^)
今日は「幻想とは何か?  」ということを、
人間である私たちでも、リアルに感じられる逸話をご紹介したいと思います。

これまでの進化の過程で、私たちの心に深く刻み込まれてしまった幻想への印象…
この逸話が、少しでもこれらを変容させる一助となりましたら、幸いです。

  * * * * * * * 

私たちは、時空に支配された幻想の中を生きています。
しかし、理論的にそのことを理解できたとしても、そのことを本当に理解することは難しく、
非二元論や不二一元論を学んでいても、どうしても私たちは自分を肉体だと思い込む「感覚の呪縛」から逃れられません。

なぜならば、
幻想の中にいる私たちは、感覚に支配されており、
肉体にくっついている「五感」が「見たり、聞いたり、肌で感じたり、味やにおいを感じる」ので、
世界が、さも存在するように錯覚してしまうからです。

更に私たちの肉体には、非常にやっかいな「情動」というものが貼り付いています。
五感により、快・不快の感情が生じ、それらは体験として記憶され、思考や欲望を生み、個人の物語を紡いでいきます。
しかも、それらは過去世のものも、一緒に蓄積されていきます。

なので、私たちは、五感による錯覚や、思考や欲望による情動の支配から逃れることは、なかなかできないのです。

これは私たちのような凡人だけではありません。
実は、偉大なる聖者のひとりであるナーラダ仙もそうでした。
ナーラダ仙は、神を信仰する愛の道を説いたバクティ・ヨーガの偉大な聖者です。
ナーラダ仙の教えは、聖典ナーラダ・バクティ・スートラとして残されています。

今回は、そのナーラダ仙が幻想に惑わされる逸話が、ギヤーナヨーガの中に記されているので、そのお話をご紹介したいと思います。

ナーラダ・バクティ・スートラ
by Shrimad Rajchandra Mission Dharampur. 2010


・ナーラダの疑問 「師よ、幻想とはなんでしょうか?」

ある日、ナーラダはクリシュナ神と共に、ある村の小道を歩いていました。
ナーラダはクリシュナに尋ねました。

「師よ、幻想とはなんでしょうか?」

しかし、クリシュナ神はそれには答えませんでした。
(※ クリシュナ神とは、ヒンズー教では他の神々と異なり、もっとも偉大な神のひとりであり、絶対神です。絶対なのに、人間の姿をしているので、なかなかそう思えませんが(笑)、個別性は持っていません。これも私たち人間の理解力のレベルに合わせてくれた表現としてご理解ください。もしかしたら”神の化身”という表現の方が理解しやすいかもしれません。)

しばらく行くと、クリシュナ神は言いました。
「ナーラダ、とてものどが渇いたので、水を一杯もらって来てくれないか?」 

ナーラダは水を探し求め、人家があったので、戸口で「お水を一杯頂けませんか?」と尋ねました。
すると、家の奥から若く美しい娘が出てきました。

ナーラダはこの娘をひと目見たとたん、恋に落ちてしまいました。
そして、クリシュナ神に頼まれた水のことは、すっかり忘れてしまいました。

恋したナーラダは、この家の近くに住み、娘のお父さんに何度も「娘さんと結婚させてください」とお願いしました。
そして、とうとう娘と結婚することができたのです。

ナーラダはしあわせでした。
家族を養うために畑を耕し、お金を稼ぎ、かわいい子どもも2人生まれ、楽しく暮らしていました。

ところが、10年程経ったある日…
この村に大洪水が起こったのです。

村は濁流に吞み込まれ、ナーラダの家や家族も流されそうになります。
濁流の中で、ナーラダは必死に、奥さんと二人の子どもの手を強く握り締めました。

しかし、水の勢いは止められませんでした。

右手でつかんでいた子どもは流され、そして、左手でつかんでいたもう一人の子どもも流され… 最後には妻も流されてしまいました。
ナーラダは愛する妻もかわいい子ども達も失い、絶望し、激しく泣きました。

すると、どこからともなく声が聞こえてきました。
「ナーラダ、水はまだか? 水を頼んで、もう30分経っているのに。」

ナーラダが辺りを見渡すと、そこには洪水も家も無く、
ただクリシュナ神だけが立っていました。

クリシュナ神は言いました。
「あなたは幻想とは何か、聞いていました。これが幻想です。」

・この逸話へのシンボリックな解釈

いかがでしたでしょうか?
この逸話により、私たちは、幻想が桁外れに大きいことや、日頃からどれだけ幻想に惑わされ、真実が見えなくなっているかを、明確に想像することができます。

実は、このナーラダ仙の逸話は、私たちの人生におけるシンボルとしても解釈できます。

例えば、ナーラダは、私達自身です。
ここでのナーラダの苦しみは、私たちの苦しみと同じです。
私達も人生でたくさんの苦しみを味わいます。
ナーラダの流した涙は、私達が流す涙です。

そして美女は感覚の対象です。
ナーラダは感覚の対象に心を奪われ、幻想に入り込んでしまいました。

そして、クリシュナ神が求めた水は「命の水」「最高のしあわせ」「叡智」「平安」です。

ナーラダは、幻想により、水のことをすっかり忘れてしまいました。
私達も同じように、いつも人生の目的を忘れてしまいます。
そして、その忘れてしまった原因はマーヤーの影響なのです。
私たちは、いつもこの幻想に遊び、人生の本当の目的を忘れてしまうのです。

そして、最後のクリシュナ神の言葉、これがあなたの内側にある「絶対」の声なのです。
(※ ヨガではこの内なる絶対の存在をアートマンと表現し、すべてのものは、アートマンとして実在していると、考えられています。)

実は、私たちは、自分の力だけでは、幻想から逃れられません。
自力の努力では不可能なのです。

ではどうしたら良いのでしょうか…

クリシュナ神がナーラダを目覚めさせてくれたように、
私達はいつも神を忘れずに、
神に救けを求め、
神の恩寵を頂くこと。
これが最も大切なことなのです。

今回は、2023年6、7月にインド大使館で行なわれたマハラジのご講義の中で印象的な箇所を自分なりにまとめてみました。
幻想の力は、ナーラダ仙のような偉大な聖者も惑わされるほど、強大ということが感じられる逸話です。
そして、同時に、たとえ私たちがどんなに惑わされようが、神様は普遍の愛を持って、私たちを変わらずに見守ってくださっていることがわかります。
心から神様の愛に感謝するとともに、励まされる逸話です。

出典は『日本ヴェーダーンタ協会』ウェブサイトをご覧ください。youtubeもございます。

‎ クリシュナ神 
by The Mindful Word 2015

(おしまい)


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