創作するなら愛をくれ

ここのところ、漫画の原作とドラマ化の話がよくメディアに取り上げられています。1人の才能ある漫画家が自ら命を絶ってしまったことを発端に、各メディアで激しい論争が繰り広げられています。漫画が映像作品になる際のトラブルは今に始まったことではありませんが、事態をここまで悪化させたのは、間違いなくテレビ局です。僕はもう観なくなって10年以上経ちますが、テレビはもはや、ひとつも責任取らないくせに、やたらと権威をひけらかして威張り散らす、定年間際のダメ上司みたいな存在に成り下がりました。かつてはたかが電気紙芝居だったくせに、ずいぶんと偉くなったものです。

日本のテレビアニメ黎明期に活躍した監督に、出崎統という人がいました。手塚治虫の虫プロ入社直後からすぐ頭角を表し、僕ら70年代生まれの大多数が知っているアニメの監督を何十本と手がけ、今から十数年前にまだ60代で亡くなった稀代の天才です。好きな作品、今の自分の血肉になっている作品ばかりなのですが、中でも『あしたのジョー2』は別格です。出崎作品の最高傑作だと思っています。主人公の矢吹丈を取り巻く人々やその関わりを、原作の枠を超えて描き出し、時にはアニメオリジナルのキャラクターまで登場させて話に深みを与える。止め絵や逆光など、ケレン味溢れる演出で僕らの心をギュッと引き寄せ、『あしたのジョー』という 作品の本質をさらに凝縮させて表現してみせる。漫画原作者のちばてつやならまだしも、あの武闘派で有名な原作者、梶原一騎を相手によくここまで話を盛ったり変えたりできるなと、出崎監督の胆力に恐れ入ってしまいます。それは一重に、監督自身がこの作品をこよなく愛し、憧れながら結局はジョーになれなかった他の登場人物にまで、深くシンパシーを持って描いていたからに他なりません。ちば先生はこの作品を観て、僕よりずっと矢吹丈を理解していらっしゃると出崎監督に賛辞を贈ったといいます。

もちろん、出崎監督の特長である原作の改変、盛り込みなどは、場合によってはとんでもないことです。アニメオリジナルのキャラクターや、話の展開を見せられた原作者の心情になってみれば、こんなのは自分の作品ではないと、怒りが込み上げてきてもおかしくはないと思います。そこを上手く取り持って、作品を完成させるのがプロデューサーでありテレビ局の仕事です。きっと、出崎作品を担当したプロデューサーは大変だったと思います。実際、このことが発端で現場のスタッフが何人も辞めていますし、原作者と折り合いがつかず結局アニメ化できなかった作品も沢山あります。天才の周りには常に、損な役回りに終始させられる人がいるものです。それでも僕らが出崎作品に魅せられるのは、監督自身から溢れ出ている原作への深い愛情ゆえなのです。

フランケンシュタインの怪物は、自分を造った博士に、愛情もないのになぜ私を造った? と詰め寄ります。博士は天才である自分の自己顕示欲や、理解しない周囲の人間を見返すために造っただけなので、醜い怪物を愛することができません。テレビ局も同じです。広告代理店の儲け話に乗って作っただけなので、その作品を愛することができません。原作者からしてみれば、愛情たっぷりに育てた我が子が、訳のわからない連中に寄ってたかって蹂躙され、失敗してもなんら責任を取らずに知らん顔を決め込まれ、挙句に子供の名前が売れたんだから結局よかったでしょ? などと言われたら、殺意のひとつも湧こうというものです。出崎監督には、ちゃんと愛がありました。当時、それを担当していたプロデューサーも局も、なんとかこれを素晴らしいものにしようと愛情を注いでいました。それは作品を観れば一目瞭然です。関わるすべての人間に愛情と責任があり、一丸となってそれを成就させようとする意志。それがあってはじめて、原作とは異なる優れた二次創作となるのです。

この十数年、テレビ局は広告代理店に言われるがまま、原作をボロボロに蹂躙した物を大量に作り出してきました。監督や脚本家も仕事や生活を人質にいいように扱われ、やりたくもないような仕事を無理やりやらされてきました。出崎監督がもしご存命なら、この惨状をいったいどんな目で見ていただろう? 愛情もなくただ蹂躙された異形の二次創作たちを、いったいどんな気持ちで眺めていただろう? 広告屋やテレビ屋ども、愛がないなら初めから作るな。

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