見出し画像

5月11日 大津事件起こる(明治24、1891年)

レーニンは日露戦争(1904)での日本を「若い国」と表現したが、それはこの事件の13年後のこと。当時の日本は、まだ「国際外交」という言葉を覚えたばかりのよちよち歩きの赤ん坊だった。しかし北からは、牙を向いて襲いかかろうとする熊が、、、。

それでも4月27日に来日したロシア皇太子ニコライ2世は、かなり日本に好印象を持ったようだ。長崎港からお忍びでの買い物、花街での宴会、極めつけは彫物師を呼んでの刺青(ニコライ2世を処刑したボリシェビキはこれを確認したか?と吉村昭氏も指摘しています)入れ。とにかく日本の警備担当者は、青ざめたりびっくりしたり振り回されっぱなしだったが、その必死のおもてなしが好印象につながったようだ。

ところが何とか無事に大津まで来たのに、大事件が起こった。幸い皇太子は一命をとりとめたものの、神戸港停泊したロシア軍艦に「避難」したまま。ロシアからの賠償請求から宣戦布告までの報復の噂が飛び交う中、明治天皇をはじめ日本政府高官は恐慌状態のなかで不眠不休の謝罪を続けた。

以外だったのは、、、襲撃犯の津田三蔵巡査が皇太子を襲った動機の一つに「西郷隆盛帰還(皇太子はロシアに亡命していた西郷を鹿児島に送り届けに来た)説」があり、西南戦争から15年経っても、その影響は根深く残っていたようだ。

また襲撃犯から皇太子を守った日本の人力車の車夫2名が、わざわざ皇太子から軍艦に招かれた上、お礼にロシア政府から多額の終身年金をもらったが、、、さてその後日談やいかに?(笑)

■参考文献

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?