「最初に手を差し伸べてくれたひと」への自分的こだわり。
最近文章を書くことがめっきり少なくなって、ふとした瞬間に言葉が出にくくなっていうように感じる。
昔はあれだけ記事を書いていたのに、やはり継続することが一番大事だなーと思い知らされてます。
けれど、なぜだかnoteは書きやすい。
このメディアの特徴として、筆者の内面に寄り添うような空気感が全体に漂っているからなのかな。
❇︎
先日、佐賀から高知に移住して、一番"最初"にお世話になった経営者の方に近況の報告をさせてもらった。
その方は、本当に心から自分の気持ちを伝えられる相手で、
経営者ではあるんだけれど、
まるで父のような、
時々、兄のような存在。
久しぶりにお会いしたにもかかわらず、いつものようなフランクな雰囲気で
話を聞いてくださり、僕の提案にもこたえてくださった。
(この久々に会って話をした時の感動や雰囲気を、文章としてもっと書き起したいけれど、ほんとに文章力落ちたなこれ・・・)
❇︎
ぼく、ずっと昔からこだわりがあって、
「最初のひと」
をすごく重要視するんですよね。
自分が何か世に発信したときに、最初に反応してくれた人。
自分が移住したとき、最初にお世話になった人。
自分が苦しんでいるときに、最初に気づいてくれた人。
とにかく「最初に手を差し伸べてくれた人」というものにこだわる。
特になにか合理的な理由があるわけではないんだけれど。
人は成長し影響力を持つにつれて
関わる人の範囲は次第に増えていきます。
つまり、いろんな人から声をかけてもらうようになってくる。
そしてそれはビジネスの話が多いのかもしれない。
流行り廃りも激しい現代で、情報も過多になってくる。
そうすると、必然的に
「人を見る目」
が大事になってくる。
だって、みんながみんな自分にとって心地よく関われる人ではないし、搾取されることだってあるのだから。
もちろん逆もあって、初対面は何も感じなかったけれど、徐々にその人の魅力に気づくことだってある。
けれど、「最初に手を伸ばしてくれた人」って、
「純粋に自分を助けようとしてくれた存在」
に限りなく近い。
というか、そう体感的に思う。
相手の気持ちはこちらでは本質的にはわからないから、何の根拠もないんだけれど、
ただ確実に言えることは、
そういう存在を大切にすると、
「自分が幸せになる」
ってこと。
そしてたいていの場合、そういう人とは馬が合うし、お仕事でご一緒させていただく流れになることが不思議と多い。
だからです。
自分の原点をつくった人を大切にできなくなったとき、
「自分の中の大切な何か」
が壊れちゃうんじゃないかっていつも思っている。
この考えには何の根拠も無い。
けれど、むかし自分が調子に乗って、図に乗ってしまっていた若い時期に大きな失敗をして、
そこからの教訓として心に刻まれている、案外強固なものだったりする。
どんなに成長しても、大きくなっても、これは捨てたく無いなって、今は思う。
ぼくには、他にもまた会いにゆきたい「最初に声をかけてくれた人」がたくさんいる。
ある恩師には絶対また会いにゆきたいなと思っているけれど、
そのために立てた目標の達成には、きっとあと2〜3年くらいはかかる。
これを楽しみに生きているといっても過言では無いのかもしれない。
その人に会える日を想いながら、
今日も1ミリずつ進もう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?