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西粟倉村史を読み解く ②タタラ製鉄

株式会社百森の清水です。西粟倉村史を読み解く第2回は、「タタラ製鉄」についてです。

第1回「西粟倉村の道」の続編です。

タタラ、製鉄と聞いて映画「もののけ姫」を思い浮かべる方も多いかもしれません。規模や時代は違いますが、西粟倉でもそのタタラ製鉄が行われていたのです。

近世製鉄史では、中国地方は明治22年の国内生産額の79%を占めていたくらい国内需要の中心的供給地域だったようで、西粟倉村の「永昌山」も鉄産地として記されています。なお西粟倉ではタタラ遺跡が大茅地区と影石塩谷地区に見られますが、塩谷のタタラは他の村から砂鉄を運んで行われたもので、村史に残る記録も大茅村のものが中心のため今回は大茅村に焦点を当てます。

大茅村は現西粟倉村の北東端に位置し、北を鳥取県、東を兵庫県に隣接する村内でも山深い地域です。現在の地図に明治21年の地図を重ねると、このようなイメージ。

砂鉄には良い日本刀の原料となる「真砂砂鉄」と、銑鉄(せんてつ:鋼の原料)のもととなる「赤目砂鉄」の2種類があり、西粟倉では赤目砂鉄が大半を占めていましたが一部で真砂砂鉄が出現したようです。

職人の役職

さてタタラ製鉄とは、砂鉄を含む土砂を水の中で洗い沈殿した砂鉄を採取する「鉄穴(かんな)流し」と、は粘土で作った製鉄炉に砂鉄と木炭を交互に入れてふいごによって風を送り、1200℃以上の高温で砂鉄を溶かして鉄を作る「タタラ吹き」の作業からなります。
特にタタラ吹きは大変な体力仕事ですが技術も必要で、その工程には様々な職種の作業員が携わっていました。例えば…

■鉄穴稼ぎ
山の表土を取りのぞき、土砂を掘り流す人

■鉄砂師(かんなじ)
鉄穴流しの総監督。タタラ場の人以外にも、農閑期の農民が副業として出稼ぎすることもあった。

■村下(むらげ)
砂鉄の溶解作業を支配する総責任者。村下の技術で鉄の質が決まるため重要な役割で、一子相伝の秘法として口伝で世襲された。

■内番子
ふいごを踏んで溶解炉に送風し熱を上げる人。江戸時代後期までは手押しで、以降は足踏み式となった。昼夜連続だったため寝る間もなく重労働だった。もののけ姫でいうとこの場面。

スタジオジブリ もののけ姫より

■鍛冶大工
炉から取り出した鉄塊を砕いて鋼材を製品にする。

■山子
十数人でグループ担って原木を伐ったり炭を焼いたり運んだりする。

■小炭伐り
鍛冶用の炭焼きで、主に農民が副業として働いた。

役職ごとに階級があり、村下や鍛冶大工などには「さん」づけですがそれ以外の職人は呼び捨てだった、また村下は絹のふんどし、それ以外の職人は木綿のふんどしであったという記録も残っています。

タタラ場と村人の関係

タタラ場の周辺は木炭の原材料となる雑木林が広がり、砂鉄が含まれる山としてはこれ以上ない製鉄向きの環境でした。

また住居は図のような配置だったと考えられており、繁盛期の永昌山には200人以上の人々が生活をしていました。主な技術職の職人は他国からの移住者で占められており、現在の西粟倉村にあたる村民は運送や雑用、また農閑期の出稼ぎとして働いていました。

労働者の中でも技術者は、西粟倉で生まれたのではなく経営者の指示で移住してきた者が多く、経済面から見ても年貢納めに追われる農民の生活に対して比較的高賃金だったこともあり、鉄生産の技術者であるということに誇りをもって独自の風習や習慣を堅持していたようです。このような背景からタタラ場は一般に村人から敬遠されることも多いですが、永昌山の場合は農閑期の副業として大茅村だけでなく近くの村から出稼ぎに来る人がいたため比較的友好的だったようです。

重なる逆境

タタラを経営するうえで木炭の調達、水の確保、交通の便が重要なウェイトを占めており、永昌山の場合は全ての条件が満たされていましたが、県下に流れる吉野川の源流であったため下流地域とは度々トラブルが生じていました。

その下流地域に当たる村々は、反対請願を文書や運動によって表明していました。要点は3つ。1つ目は鉄穴流しによる土砂が田畑に流入すること、2つ目は吉野川の水質汚濁による高瀬舟の危険性が増すこと、3つ目は飲料水が汚染されることです。
2つ目の「高瀬舟の危険」とは、吉野川は水深が浅く、大きな石が1つ転がっていただけで荷物を運ぶ高瀬船が破損する有様だったので大変な労力をかけて河川を管理していたのですが、濁ってはその管理が一層困難になり安全も脅かされてしまう、という内容でした。

また明治5年には砂鉄が耕地へ流入して作物の出来が悪くなった中で鉄山稼業の人々が数百人で山に入って山菜類を半分以上採ってしまったり、洪水で被害を受けた下流の村の改修作業中に鉄山が営業されては困ると休業するよう依頼したが聞き入れてくれなかったりと関係性は悪化していき、ついには下流流域の農民が団結して抗議が始まりました。

山々の買収も始まり、日本坑法の発布や山林の国有林化なども受けて鉄山稼業は衰退していきましたが、閉鎖となった一番大きな要因は西洋鉄の輸入でした。原始的なタタラ生産では到底太刀打ちできず、ついに明治26~27年ごろ、永昌山のタタラ場は閉山しました。
繁栄を極めた大茅村のタタラ跡には、今でも生活の跡や墓碑が見られます。

与三左衛門の針金計画

さて、またまた余談ですが、西粟倉で作られた鉄のほとんどは大阪に販売されていたようですが、一部は西粟倉村の中で加工されていたようです。

一つ目は針金。影石村の庄屋当主に与三左衛門という者がいました。彼は鳥取藩が倹約令を出し領民が絹布衣類の着用を禁止すると、因幡に入って着ることができなくなった衣服を買い集めて他に転売して多くの利益を得たりと商売上手だったようで(村史にも「知恵者」と書かれています)、1862年、大茅村でとれた鉄で針金を作り大阪で販売する事業を始めました。

△:タタラ跡
U:鉄穴跡
○:針金工場跡

彼は針金の製造販売に自信を持っていたようですが、当時神戸で外国貿易が盛んになったタイミングで、西洋針金の評判がどんどん高くなっていました。与三左衛門はなんとか和製針金の企業防衛に尽力しましたが、半年後ついに対抗できないことを悟り針金製造のめどが立たずに1867年に廃業しました。幕末の開国の影響は、西粟倉の山村まで広がったのでした。幕末維新期は事業家にとって非常に厳しい時期でしたが、与三左衛門は最終的には「農業より収益の確実性が勝るものはない」と判断し以降は田を購入して農耕に励んだようです。

伝説は生きていた 刀工吉光

二つ目は刀工。西粟倉には「影石地区谷口に下鍛冶屋という地名があり、そこでは昔刀工吉光が玉鋼を用いて刀を鍛えていた。」という伝説があります。しかしこれは単なる伝説ではありません。吉光は名刀の産地、備前長船の刀工として知られた嘉光左兵大夫の末裔で、影石村谷口に居を構え、永昌山から出る砂鉄を材料として昼夜日本刀の製作に専念してこの地で一生を終えたと考えられています。
旧あわくら荘の近くには吉光の墓があり、今でも「吉光」「吉光橋」などの地名が周辺には残っています。


参考:西粟倉村史(前編・後編)
使用した地図の著作権はGoogle に帰属します

見落としている部分も多いようなので、より詳細を調べたい方は図書館へどうぞ!




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