映画『沈黙‐サイレンス‐』感想

やっとこさ映画『沈黙‐サイレンス‐』を見てきたのでメモ的にちょこっとだけ感想をば。

遠藤周作の有名な小説が原作とはいえ地味なテーマだし(有名だからといってみんな大好きというわけでもないだろう)やったら長いし(上映時間161分)アカデミー賞は逃したし(ノミネートも撮影賞のみ)ということで、既に上映館も上映回も少なくなっていて、なんとか間に合ったようなかたち。以下軽くネタバレだが原作にほぼ忠実(原作はずっと以前に読んだきりで細かいところはあまり覚えていないが)だから特に気にしない。

ざっくりいえば、消息を絶ったクワイ=ガン・ジンを探しに行ったカイロ・レンとスパイダーマンが、かくまってくれた巨災対「学界の異端児」間邦夫准教授を救おうとするもかなわず、カイロ・レンは裏社会と通じて児童売春クラブを経営する女子高生藤島加奈子とともに海に沈み、生き残ったスパイダーマンはやっとクワイ=ガン・ジンに対面するも既に彼は「敵」に寝返っており、「対決」したものの敗れたスパイダーマンはその後クワイ=ガン・ジンの部下となってその後を継ぐ、という話だ(こうやって書くとまるでちがった話にみえるな)。

「沈黙」っていうタイトルからすれば当然かもしれないが、音楽はほとんどない(BGMはあったのかどうかすらまったく記憶に残っていない)。信者たちの歌う聖歌が時折出てくるくらい。代わりに、虫の音や風の音など、自然の音が全編にわたって空間を満たしている。日本に住む私たちには当たり前の、そこらじゅうにある環境音。エンディングロールもずっとそれだけで音楽は一切なし。それが「沈黙」の重苦しさをいっそう強調する効果をもたらしている。

ストーリーもご存知の通りなわけで、なんとも重苦しい161分(時折グロ)。島原の乱の後まもなくの時代。江戸時代初期はまだ戦国の余韻の残る陰惨な時代だ。戦国時代というと、さまざまな作品に描かれるかっこいい武将たちの華々しい活躍をイメージしがちだが、当然ながらほとんどの場所において、実態はそうしたものとは無縁の、薄汚く、残酷な地獄絵図だった。この映画はこの時代のそうした部分がよく出ている。北米での興行はさんざんだったらしいが、ハリウッド映画に慣れた人たちには想像を絶する映像だったろうから、わからなくもない。

本作は、原作と同様、棄教した司祭の心の動きを中心に追っている。1971年に篠田正浩監督が映画化したときには、脚本に遠藤周作自身も参加して、原作からは少し改変され、日本人の側の受け止め方を描いているそうだが、中心的なテーマが信仰であることは変わらないだろう。

「苦しむ人を前に神はなぜ沈黙しているのか」は、その「沈黙」に耐えられず信仰を捨てる弱い人をどのようにみるかとともに、キリスト教のある意味核心にふれる問いの1つなのではないかと思う。もちろん2000年かけて練り上げられた教えにはその答えもきちんとあるはずで、だからこそ原作が発表された後、キリスト教関係者から強い反発があったわけだが、同時に共感する人も多かったんだろう。マーティン・スコセッシもその1人だったわけだ。

個人的にはあまり信仰心がないもので、正直なところ、こうした宗教的な部分については想像の範囲を超える部分がある。だからというわけではないが、見ながら、この物語(主人公は実在の棄教司祭をモデルとしている)当時の時代背景について考えていた。これを宗教だけ、日本だけの問題としてとらえていいんだろうか、と。

作中、主人公ロドリゴに棄教を迫る井上筑後守が繰り返し「キリスト教は危険だ」と語るが、なぜ危険なのかについての説明はあまりない。「日本の風土に合わない」という説明は、伝来後数十年でキリシタンが数十万人規模に達した事実や、キリスト教がそれなりに根付いている現代日本の状況からみれば、さほど説得力はない。結果として、彼らのような当時の日本人支配層が残虐で狡猾で、不条理にも弾圧した、という印象が強く残ってしまう(記憶が正しければ、井上や通辞が元キリシタンであるというくだりは映画では語られなかったように思う。彼らがふつうに外国語を話すことの「異様」さを英語圏の人たちは気づかないのではないか)。実際に残虐、狡猾だったのかもしれないが、それだけではないだろうとも思う。

キリスト教が「危険」とする考えは、島原の乱で如実に示された通り、信者たちが時の権力者ではなく神に従い、死をも辞さない集団だったからだろうが、そのような理由で弾圧されたのは、キリスト教だけではないしキリスト教が初めてでもない。秀吉の伴天連追放令は、石山本願寺や加賀一向一揆など、浄土真宗の武装勢力が「平定」されてからほんの10年ほどしかたっていない。

浄土真宗は、念仏を唱えるだけで死後の極楽往生を「保証」し、したがって信者が死を恐れないという意味ではキリスト教と似ている。かつ、キリスト教よりはるかに長い歴史をもち、庶民層に広く深く浸透していた。キリシタンが、織田信長をはじめとする大名たちをさんざん苦しめた一向宗門徒と同じようになっては困ると考えるのは、当時の権力者の立場からは自然だったろう(その意味で、ロドリゴが、日本人沢野中庵となったフェレイラと再会した場所が浄土真宗の寺だったのは象徴的だ。武器を捨て体制に組み込まれた一向宗とそうならなかったキリスト教との対比が印象に残る)。

しかも、僧侶や民衆に率いられた浄土真宗と異なり、キリスト教信者には大名が数多くいて、いわば武力と直結していた。イエズス会はかねてからキリシタン大名への軍事支援を行っていたし、海外から援軍を送る計画すらあった。天下統一がなされようというときに、そのような動きをすれば、警戒されるのは当然だろう。

秀吉ら当時の日本の為政者がどこまで知っていたかは知らないが、スペインがアステカ文明を滅ぼしたのは日本にキリスト教が伝わる約30年前、インカ帝国が亡ぼされたのは本能寺の変の10年前だ。その後には当然のように、植民地化と住民の強制的な改宗が進められた。アジアでも、インドの植民地化は16世紀初めには始まっていたし、その後も広範な地域で進展して一部は20世紀まで残った。あのままキリシタンを放置したら日本も植民地されてしまっていたかどうかは歴史のifだが、リスクは高まっていただろう。

当時のキリスト教の世界への伝播はこうした生臭い動きと半ば一体のものだったわけで、崇高な使命感だけで語れるものではないし、その過程で行われた数々の所業と、日本でのキリシタン弾圧(一向一揆平定とか比叡山焼き討ちとかも相当なものだろうが)とどちらが残虐であったか比べてもしかたがない。当時は日本もヨーロッパもそういう時代だったということだろう。

もう1つ、日本におけるキリスト教禁止のきっかけとなった要素として、ポルトガルなどヨーロッパ人による奴隷貿易がある。当時の日本では戦いに負けた側の人々が人身売買の対象になっていたから、その一部が海外に流れたこと自体はある意味おかしくはない流れだが、秀吉がこれに激怒したことはよく知られている。天下統一をなしとげた秀吉は、自身が貧困層の出身だし、天下人としては農民が海外に売られてしまうことによる国内の生産力低下を恐れたんだろう。

宣教師たちがこれに直接関わっていたというわけではないだろうが、少なくとも秀吉の伴天連追放令以前、ポルトガル商人が大勢の日本人奴隷を海外に連れていって売りさばいていたことに対し、イエズス会の態度ははっきりしないものだった。半ば黙認していたと考える方が適切だろう(秀吉に対しては、日本人が売るからいかんのだ、と釈明したんだが、そういうロジックは今の視点では正当化できまい)。女性は性的目的で売られる場合も少なくなく(船乗りは独身者多いし)、男性はその戦闘能力を買われ兵士とされることが多くあったらしい(なんせ戦国時代だし)。

だからしかたがなかった、といいたいわけではない。ただ、ロドリゴの苦しみは世界中の人間が共感しうる普遍的なものであると同時に、当時海外に売り飛ばされた奴隷や寺院を破壊された仏教徒、国まるごと滅ぼされたインカやアステカの人々などの受けた苦しみと同種とはいえないまでも似た要素を持っていて、その意味で相対的に考えた方がいいかもなあ、と思っただけだ。馬に乗せられ街中を引き回されるロドリゴに石をぶつけた民衆の中には、かつてキリシタンにひどい目に遭わされた人やその家族がいたかもしれない。ロドリゴ自身の責任かどうかは別として、当時の日本人にとって、キリスト教の司祭は「邪教」の伝道者や悲劇の英雄というだけではない存在だったのではないか。

昔は大変だったのね、今はよくなったね、という話ではあるが、今でも似たようなことがないわけではもちろんない。信仰ゆえにテロ組織に殺されたり売られたり、あるいは自らの信仰に反する行為を強いられたりする人々の話はニュースで少なからず見聞きする。クルアーンの暗誦ができなかったためにISILに殺された人々はさぞかし無念だったろうと思うし、ベールを禁止されたフランスのムスリム女性の気持ちはイエスを踏めと言われたキリシタンたちと違わないのではないか、などと想像してみたりする。自分たち自身がどこかで「形だけのことだ」とうそぶく通辞のようなことをしていないか、気になったりもする。

というわけで、いろいろと考えさせられる映画だった。日本を舞台とした物語でもあるし、見てない人は一度見ることをお勧め。劇場公開は間に合わなくても、配信やディスクという手があるし。ちょこっとだけ書くつもりだったのが少し長くなっちゃったのでこのへんで。



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