『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見てきた

最近一部で話題の映画を見てきたので手短に。以下ネタバレありありなのでご注意。

「一部」というのはいわゆるフェミ界隈のことで、そっち方向の人たちの間でこの作品を評価する声がけっこう聞かれる。個人的にこういう映画はあまり趣味ではないのだが、フェミの人たちがよりによってマッドマックス?というので興味をもったわけだ。正直、これまでこのシリーズの作品は1つも見ていないし今後もあまり見たいとは思わない。以下書くこともそういう前提なので念のため。

もともと第1作では警察官だったはずの主人公マックスだが、第2作からはその後の核戦争で文明が崩壊したあとの世界を舞台にしている。全作品共通して基本的にはでなカーアクションとバイオレンスが売り物だ。第4作にあたる本作では、さらにそれがエスカレートして、世界はもはや笑うしかないレベルにまで荒廃しきっている。

この、マッチョな男しか出てこなさそうな暴力全開かつ人権なにそれおいしいの的なイメージのこの映画の何がフェミ界隈で評判かというと、簡単にいえば「女性が男性と対等に描かれている」という点らしい。で、見てみたら、確かにそういえる部分は多々あった。ただしそれは、女性の人権に配慮するとかそういう方向じゃなくて、老若男女あらゆる人々の人権が徹底的に蹂躙されまくってるという意味で対等、ということだ。

実際のところ、この映画に出てくる数少ない女性たちの多くは悪役のボスキャラであるイモータン・ジョーの子どもを産むための、いわば「産む機械」としてしか扱われていないわけだが、男性であるマックスが「blood bag(血液袋)」と呼ばれ、実際にその呼び名通り戦闘員に血を供給するためにのみ生かされているような世界では、不当に低い扱いとはいえないだろう。

イモータン・ジョーを裏切り、そんな女性たちとともに逃亡を図るフュリオサも女性だが、彼女は戦闘員たちを指揮する隊長であり、逃亡してからはマックスとともに、当たり前のように、襲い掛かる追手の男性たちとわたりあい、殺しまくる。彼女は片腕を失った身体障害者でもあるが、義手をつけていて、戦闘に支障はない。障害は作品世界の過酷さを象徴するものではあるが、差別や配慮の対象となるハンディキャップとして描かれてはいない。

途中で合流する、フュリオサのふるさとの街(かつてあったらしい)の老女たちも、フルに武装してバイクを乗り回し、男たちと対等に戦い、敗れれば死ぬ。イモータン・ジョーの子をみごもったスプレンディドも戦いに参加し、命を落とす。力と知恵と、意志の力で優劣が決するという意味で、まことに「平等」なのである。そういう描写を見て、(少なくとも一部の)フェミの皆さんは快哉を叫んだのであろうか。

とはいえ、最終的にイモータン・ジョーは死に、逃げ出した土地に帰ったフュリオサは新たなリーダーとして受け入れられた。ふつうに考えれば、あれほど荒廃しきった世界でコミュニティを維持していくためには、彼女はイモータン・ジョーとさして変わらない(ひょっとしたら、もっと厳しい)独裁を行わなければならないはずだ。リーダーは男性から女性に変わっても、それだけではおそらく世界は少しも改善しないわけだが、そういう絶望感は、この映画を支持する一部のフェミの皆さんにはあまり意識されなかったのだろうか。

よくわからないが、ネットでみる限りは単に「女性が男性をやっつけ支配者となる展開に喜んでおしまい」の人たちばかりではなかったようで、その点は正直ちょっとほっとした。個人的には、この作品を前向きに評価したくなるほどに現実社会の病巣は根深い、ということなのかもしれない、という気がする。





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