FORMULA


先日の弾丸日帰り一人旅からあっという間に一週間になる。


一週間ってあっという間やな。


ここでも述べていたメインの舞台についてお話しようと思う。


今回行ったのはこちら。

『没入型パフォーマンス FORMULA』


こちらを知ったのはとある朝のスッキリ。


10月は私の好きなダンサーのriehataさんがマンスリープレゼンターとして出演していた。


そこに森山未來さんがゲストとして登場。


俳優としてはもちろんダンサー、アーティスト、表現者としても有名だ。


今回は脳科学者の中野信子先生とイスラエルの振付師のエラ・ホチルドさんとタッグを組み「ダンス×脳科学のプレゼンテーション」と称してこのような舞台を構成したという。


ダンスと脳科学?


なにそれなにそれ


興味本位でテレビを観ながらサイトを開き、早速チケットを購入した。


当日、会場はすごい人。


私のようにスッキリを見て来た人も多いんだろうな。


そもそもFORMULAってどう言う意味や?

「FORMULA」
数学の世界においては「公式」、料理の世界では「調理法」、心理学の用語としては「身体を動かすための手順」といった意味で使われる"FORMULA"。
そもそも言葉とはどのように私たちの意識となり、私たちの身体を動かすのか。
あらゆる方法で他者とのつながりを築こうとしてきた私たち人間を、信子さんの科学的知見やエラの身体性を通して紐解きながら、同時代に生きる私たちの死生観を再考するための実験的な「レシピ」を提案したいと考えている。
ー 森山未來 ー 
(FORMULA チラシより)


んんんん


なんか難しい。


観たらわかるのだろうか。


いざ観劇。


セリフはない。


音楽もメロディーのみ。


歌詞はない。


男性4名、女性2名のダンサーが舞台上で舞っている。


コンテンポラリーダンスを生で観劇するのは初めてであった。



そこで私は気づいた。


あぁ、これは「正解」がないやつだ。



今までたくさんのダンスを観てきた。


実際のステージ、テレビ、動画


ダンスにも色々なジャンルがある。


どれも違った良さがあって好きだ。


大体のダンスナンバーには「テーマ」があることが多いと思う。


その方が選曲、振付、構成がしやすいというのもあるし、見る側がわかりやすいからだ。


しかしこの舞台はそれがないと思った。


あくまで直感。


これは見る側が自由に解釈、イメージして捉えていいものだと感じた。


劇中で森山さんが無音の中一人で淡々と早口で話すシーンがあった。

「わたし」は一人で生きている
と、感じる人も少なくはないでしょう

けれども、それは無数の見知らぬ人たちの生命活動に、直接的に、間接的に、支えられているのです
人間は、無数の見えないつながりの糸がないと、生きていくことができません

わたしたちはなぜ、わたしたちだけなのか
わたしたち以外にも、人類はいたのです
けれども、わたしたち以外の人類は種ごと滅びてしまい、
もう生き残っているのはわたしたちホモ・サピエンスだけなのです

ホモ・サピエンスが生き延びたのは、集団として生きるための進化を遂げたからでした
そのために生まれた巨大な脳
そうすることでしか処理できない、複雑な社会性
つながりを求める情動としての、愛情

そんなわたしたちにとって、
生命活動を終えて、物理的に肉体が動かなくなること自体よりも
誰かがいなくなり、大切な人を失って、それを忘れてしまうこと
そして、自分も同じように忘れられてしまうであろうこと
それこそが、原初の、リアルな死の恐怖であっただろうと推測できます

人とのつながりが絶たれること
「わたしたち」が、小さな「わたし」のばらばらな寄せ集めに過ぎなくなり
誰もが誰かの記憶を失い、思い出をすべて忘れてしまうこと
もしかしたら、そのことこそが、
わたしたちの最終的な死のかたちなのかもしれません
(FORMULA 劇中テキストより抜粋)


なぜかと聞かれるとわからないが、ぶわぁ〜っと鳥肌が立った。


一番印象的なシーンであった。



人間とはなにか、その本質とは


考え出したらキリがない。


あの舞台の感想をと言われると「言葉にできない」が一番自分の中でしっくりくる。


70分は体感的にはあっという間であった。


また観たいなぁ。

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