「全てが嫌」と思ってしまう理由は?

「もう何もかも嫌!」
「全て投げ出してしまいたい」

こんな気持ち、ありませんか?

私にはありました。

我慢して我慢して
ある時いきなり、ちゃぶ台ひっくり返してしまうような
そんな感じ

そんな自暴自棄な自分に不安を感じていたのです。

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日々、何度もやって来る、心に浮かぶ"メッセージ"

そのせっかくの贈り物の受け取り方を間違えているかも知れません。

例えば
『あなたにはこれが必要です』ではなく

『あなたは現在こうですよ』なのかも

『あなたはこれと同じ事をしているのですよ』という

成る程
だとすると合点がいく…という場合もある

そして次に同じ失敗を重ねなくて済む


全てを粉々に打ち砕くような事をしなくてもいい
一度ゼロに戻そうとしてしまう癖がある…としたら

 これはどこから来ているの?

 『全てが間違っていた』

って、いつから思うようになったんだろう?


わずかな穢れも根こそぎ払いたくなる
究極の潔癖症は
いつ生まれた?


幼少期に既にその片鱗はあった

では何故?


 … ここで暫し思考の旅 …


! 辿り着けた

おそらくビンゴだろう

「ははあ…だからか」と

それなら解き方もわかる


謎が解けた


私が何故
"拠り所"になりたかったのか

理由が繋がった

それは

安心を、安らぎを、穏やかさを
 落ち着きを強く求めるていたのだ

私に必要なのは
強く構えることじゃない

構えなくても動じない 不動心

自分で自分を支える安心感

安心感を外から貰おうと思ってはいけない

自分の内から生み出す


怯えている人に妙に惹かれた

自分と同じだったからだ

そこに自分を見ていた


内面に根深い怯えを抱えている人は
外側を鍛えようとする
武装しようとする


安心を生み出す為に必要なもの

  それは、自己愛

他を押し除けようというものではなく
真の思いやりの自己への優しい愛

丁寧に扱う心


破壊的な感情は愛の欠如

例えば

「もうどうにでもなれ!」

「全て無くなってしまえ」

こういうのは愛の一時的な欠如

すぐさま愛を取り戻して

コツコツ積み上げてきたものがどれ程大事か思い出せば
愛は取り戻せる

自棄になるな
一度壊れたら戻せない


辛いからと言って
破壊行動には行くべきではない

辛さはわかるけど
そっちではない

修復へ向かえ
諦めてはいけない


私はそっちに向いていた

だからこそこれが大事だと痛感する

意識が続く限り
より良くする方向へ向かえ

理想へ

向きが大事


絶対に変わらない大事な宝物を
最高に保ちたいと想い続ければ
進む向きを間違うことはない

            ひょんるん