哲学者と神への信仰

今回はちょっと真面目に告白しよう
今迄、ふざけてたという訳ではないけど
ちょっと真剣に

私は哲学者たるものは
哲学の前にだけ跪き
神の有無に対する問題からすら脱し
超越すべきと考えていた(個人的にです)

いつからか、そう思い込んでいた

神を信仰する者を否定はしないが
自分は傾倒しない、心酔しない

だから、哲学者でありながら「神が第一」
とする考えの人に対しては
どうも近付きづらい感じだった

心が溶け合わない感じ

心底「いいねー👍」って思えない感じ

キルケゴールは
まず、「神ありき」の人なのだ

そこが近寄り難い感じになっている

なので、その感じを逆手に取って
その部分に疑問を持つ事をモチベーションとして、アプローチしていってみようと思う

では、私は?

「神を信じよ」という方向に持っていかれるのがどうにもよろしくない

哲学者とは言えないと思ってしまう
(私が個人的に思う哲学者の像ですよ)

結局最後に神の信仰を勧めるんじゃ、宣教師だ

ただ、経緯はわかる

「どうにもならないくらい辛い時には」だから

普段は別に神を意識しなくて大丈夫
でも

「本当に辛くなったら神を頼れ」

そう言ってるのだとしたら
それはわかる

極限状態の時、人は神に願っている

では私は?

神について、どう考えているの?

この世の仕組み、物理法則を神だと思ってる

この宇宙にいる限り
物理法則からは絶対に逃れる事が出来ないからね

この世の仕組みが神

それが私の考えです。

ただ、そんな私でも
極限状態では言っちゃうよね

「どうかお願い!」
そのお願いの先に想定しているのは…

その時キルケゴールは言うかも
「ほら見ろー」って
 

更に追記

つまりこうだ
最初っから頼る気満々なのは嫌で
「限界ギリギリまで、自力で頑張ろうとするのが格好いいよね」
と思いつつ
でも、どうしようもない時には
「助けてー!」って思うくらいの頼り方ならいいんじゃない?
ってバランスが落ち着く所なのかも

もしそういう事を言いたかったのなら
私も同感だな

でもその時に、キリスト教だけを限定で押し付けられたら断るけど