黄金マニ車

北インドの秘境へマニ車を回しに行く

幸せになりたい。頑張りたくはない。楽してどんどん幸せになりたい。

幸せになるのに必要なもの。それが徳だ。徳を積めば幸せになれる。詳しい仕組みは知らないが、きっとそういう風に世の中はできている。

では最速で徳を積む方法とは?道端で困っている人を助ける。世のためになる事業を興す。仏教に入門してお経を唱える。どれも違う。マニ車を回すだけでいい。

「マニ車」とはチベット仏教で用いられる仏具の名称だ。円筒上の本体が車輪のようにくるくる回るので、マニ車。その側面にはマントラ(真言)が刻まれ、内部にはロール状の経文が収められている。大きさは様々で、手に持って回せるサイズのものから、数メートル級のものまで存在する。

このマニ車、心を込めて回せば、その回数だけお経を唱えたのと同じ効果が得られるという。すごい。すごい楽だ。元々は経典を読めない人々のために作られたという説もあるが、とにかく回すというシンプルな動作だけで徳が積めるのである。買った。

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さらに最近ではソーラー式で回転するマニ車から、果ては全自動回転のマニ車まであるという。全自動で徳を獲得できる時代。そこまでいくとさすがに徳とはなんだという疑問が湧いてくる。あとは一昔前の流行に乗った、ハンドスピナー式のマニ車というのもあるらしい。ハンドスピナーほどの速度と持続力でマントラを回転できるなら、これは相当に徳を積めそうである。買った。

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2つのマニ車を回す。だがこれでいいのか。Amazonでワンクリック購入したマニ車に、本当にご利益があるのかは疑わしい。もっと尊いマニ車を回したい。そうだ、本場のマニ車を回しに行こう。



インドの首都デリーから北に630km。「レー」という街に降り立つと、冷たい空気が僕の頰を撫でた。標高3500メートル。吐く息は白く、吸う息は薄い。静寂が街全体を包んでいて、ヒュルルと鳴く風の音が聞こえるばかりだ。

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前日までバラナシという都市にいた僕には、それがまるで同じ国だとは思えない。
混沌たる「ザ・インド」を体現するバラナシ。レーが「静」だとするなら、バラナシは「爆発」だ。とにかく五感全てに訴えかけてくる。5分歩いただけで汗がべっとりとまとわりつき、永遠に鳴り続けるクラクションに耳はイカれ、自称ガイドが僕の両腕を掴み、そして漂うにおい、におい、におい。泥水のにおい、牛糞のにおい、汗のにおい、カレーのにおい、ラッシーのにおい、人間の焼かれるにおい。それらのにおいが渾然一体となって鼻腔を爆撃し、油断すると嗅覚を失いそうになった。

それに比べて、このレーの街はどうだろう。しんと静まり返った街のにおいは「無」に近く、怪しげな日本語で話しかけてくる人間もいない。バラナシの野犬はガリガリに痩せたうえ目に狂気の光を宿していたが、レーの野犬は毛がフサフサしていて品がある。こんなインドがあったのか。感動を覚えながら宿まで辿りついた僕は、そしてあまりの頭痛にベットにぶっ倒れた。

においも喧騒もないレーには酸素もない。少し歩いただけで息が切れるし、手足がジンジンと痺れるし、階段を登ったら頭痛が止まらなくなった。注意していたつもりが、いとも簡単に高山病になってしまった。

思えばはるばるインドまで来てからというもの、どうもついてない気がする。デリーではトランジットに失敗。バラナシではガンジス川が5年に一度のモンスーンで大氾濫し、川辺の店でゆっくりしようと思っていたら店がほとんど沈んでいた。1000ルピーで乗った名物のボートは急流を渡りきれるはずもなく、ずるずると岸辺へと流されていった。そこにきてこの高山病である。

やはり足りないんだ。徳が。
この頭痛を止められるのはバファリンでもロキソニンなく、徳なんだ。

一日寝ていたら少し症状がマシになったので、翌日よろよろと外に出る。目的はもちろん、あれだ。5分ほど街をさまよっていると、早速発見した。

スタンダードマニ車

マニ車だ。

でけえ。かっこいい...


荘厳マニ車

こっちにもある。

でけえ。かっこいい…

インドの最北部に位置するレーの街は「ラダック地方」と呼ばれる山岳地帯に属している。1974年まで外国人の入境が制限されていたこの地域はインドの秘境とも言われ、宗教的にはチベット仏教圏である。本家のチベットのように中国による支配を受けなかったため、チベット以上にチベット文化が残るともされる場所だ。だからこうしてコンビニ感覚でマニ車があちこちにある。
写真を撮っていたら、おばあさんが前を通りかかった。マニ車をくるりと一周させて、そのまま去っていく。まるでポストに手紙を入れるみたいな自然な所作は、マニ車がいかに人々の生活に溶け込んでいるのかを示している。

それにしてもこれまで手回しサイズのマニ車しかみたことがなかったが、本場のマニ車のなんと大きく、そして壮麗なことか。2mを越えるその表面には細やかなマントラがびっしりと書き込まれており、迫力と繊細さを併せ持つまさに芸術作品だ。これはもう桁外れの徳が詰まっているに違いない。

銀色の手すりを押す。金属が軋む音を奏でながら、マニ車がゆっくりと回っていく。

逆マニ車2 (2)-min


マニ車の上部には細い棒がつき出していて、一周すると鐘が鳴る仕組みになっている。その横に小さな電球がついているのは、夜でも回せるようにという配慮からだ。24時間マニ車体制である。

マニ車のすず

チャリン。こぎみの良い音が乾いた空気に響く。これで一回徳を積んだ。なんだか心が洗われる気がする。やはり本場のマニ車は違う。もう一度回す。チャリン。

たまらない。普通に回すだけでもなんだか楽しい。この楽しさは公園の遊具にどこか似ている。しかも毎回徳が積めるというのだから、昔公園に置いてあった子供をぶっ飛ばす謎の回転遊具とかよりも、マニ車を置いた方がよほどいいかもしれない。

マニ車のサイズやデザインは様々で、僕は夢中でシャッターをきる。これは中型マニ車が並んでいる様子。

金色と緑のマニ車が並ぶ


最大サイズのマニ車。黄金と真紅のコントラストが上品で美しい。

大きなマニ車とリュータ


痛む頭をなだめすかしながら、街を歩き回って次々とマニ車を見つける。レーの街は本当に静かで、人々も穏やかだ。人間、徳を積むとこうなるのだろうか。バラナシで買った麻の服の中を、冷えた空気がさらりと通り抜けていく。なんて快適な場所なんだ。酸素さえあれば。


金と赤は最もオーソドックスな配色パターンのようで、めでたそうなので寿マニ車と勝手に呼ぶ。

街中マニ車


寿マニ車がずらりと並ぶ。

色違いならびマニ車


色んなマニ車を見つけては前から、横から、斜めから眺める。どの方向からからもその姿は艶やかで、頭痛で荒んだ心を癒してくれる。
そしてひとたび円筒上のそれを回せば、なにか原始的な歓喜が湧き上がってくる。そういえばマニ車の形は赤ちゃんの「ガラガラ」に少し似ている。無心で円柱を回転させる行為は、世界の全てが新しかったあの頃の喜びに、どこか通じるところがあるのだろうか。

レーは小さな街だ。一日中歩き回ったら大体のスポットを巡り終えて、それでも血眼になってさらなるマニ車を求める。人通りを避け、路地裏を通り、道なき道を進んで神聖なる円柱を探す。途中なぜか空から泥が降ってきて、バラナシで買った白い麻の服が真っ黒に汚れた。あと途中で毛がフサフサの野犬に追いかけられて、逃げた拍子に服が破れた。フサフサだからって舐めてた。
「これからも長く着れるから」と説得されて買った麻の服は、2日にしてもう使い物にならなくなった。幸が薄い。

まだまだ徳が足りないということか。僕はもう全てのマニ車を回す決意に至った。

黄金一色の絢爛なマニ車。

黄金マニ車


カラフルなマントラが鮮やかなマニ車。

カラフルマニ車


マニ車だと思ったらドラム缶だった。円柱が全てマニ車に見えてくる。

ドラム缶


珍しく青を基調としたクールなマニ車。

クールマニ車


歴史を感じる古代マニ車。

歴史的マニ車


服が終了したのでマニ車のTシャツを買った。これでいつでもマニ車と一緒だ。

マニ車シャツ


大きなマニ車を回すと上の小さなマニ車も一緒に回る、ピタゴラマニ車。

ピタゴラマニ車


実に様々なマニ車があるものだ。生まれ変わったらマニ車の設計士、マニ士になりたい。寿マニ車を基調としながらもそこに一筋の青を入れるような、そういう斬新なデザインで多くの人から支持され、そして存分に回されたい。

お寺から聞こえてくる祈りの声が、レーの街のリズムにゆるりと溶けていく。この街の時間の流れがのんびりしているのは、みんなが酸素を節約しているからだろうか。まだ僕の頭痛は治らない。



街中のマニ車を回し尽くした僕は、まだ見ぬマニ車を求めてレーの街を発つ。向かうは更に北方。ラダックの山々を車で走り抜けるのだ。

それはこの旅で最も辛い経験だった。車は猛スピードで荒れ道を暴走していく。大粒の岩を乗り越えるたびに尋常ではない揺れを起こし、そのたびに天井に頭がぶつかる。痛い。頭が外からも中からも痛い。頭が割れそうとはまさにこのことである。

標高5300mに達しても車は速度を緩めず、むしろその揺れは激しくなるばかりだ。試しに運転手に普段マニ車を回しているかと聞くと、「ノーマ二。」と言っていた。こいつは危ない。マニ車を回さない運転手にご利益はない。死を覚悟したその刹那、目の前に巨大な湖が現れた。

パンゴンツォと呼ばれるこの湖は、標高4000mの山中に突如出現する。

それは途方もない絶景。

絶景湖

絶景。

絶景石


そしてマニ車。

絶景マニ車2


やっぱりあった。絶景があるということは、人が訪れるということだ。そして人がいるところには、必ずマニ車がある。


絶景。

絶景やま


マニ車。

後光マニ車


絶景。

絶景旗


マニ車。

絶景マニ車2


絶景とマニ車のサンドウィッチだ。絶景を楽しんでは頭痛から助かりたくてマニ車を回す。標高5000mを越えたあたりで頭の痛みは激しさを増し、脳内でボクサーが殴りあっているみたいだ。誰かタオルを投げてくれ。

そんな願いは絶景の彼方へと消え、僕ができることは円柱を回すことだけ。回せ、回せ。手首が引きちぎれるまで、とにかく回せ。


逆マニ車 (1)-min

うおおおおおおおおおおおおおおおおおお


遊具みたいにマニ車 (1) (1) (1)-min

あああああああああああああああああ


複数同時マニ車回し (1) (1) (1)-min

いけえええええええええええええええええええ


地球は回っている。電子も回っている。万物は回転する。『ジョジョの奇妙な冒険』において、回転とは時間さえ超越する神秘のエネルギーだった。チベット仏教における回転とは、すなわち輪廻である。回ること、回すことには特別な意味がある。僕はどこまでも続くマニ車の坂を、くるくると回しながら駆け降りていった。

マニ車の坂




レーの街に帰ってきて、暴走車を降りた頃にはあたりはもう真っ暗だ。頭の中にマニ車が現れ、軋みながらぐるぐると回る。もう立ってもいられない。シャワーを浴びて寝よう。ふらふらとバスルームにたどり着き、蛇口をひねると水がチョロっと出て、そのまま止まった。
断水だ。オーナーに報告すると、修理するから待てと言う。寒空の下、オーナーが屋根にのぼって断水の修理を試みる。そしたらなぜか停電した。

弱り目に祟り目。僕はベッドに倒れこむ。おかしい。あんなにマニ車を回したのに。天にも昇るほどの徳を積み上げたはずである。ぐうと唸りながら、わずかな電波を捕まえてマニ車について改めて調べる。そうするとこんな記述を見つけた。

「回し方に決まりがあり、チベット仏教においてはマニ車を右回り(時計回り)に回すと功徳が積め、逆に左回りに回してしまうと悪い業が生じると言われています。」

ん?

「左回りに回してしまうと悪い業が生じると言われています。」

悪い業...?

この情報にどこまで信憑性があるのかは不明だ。だがマニ車に逆さの経文を入れると業が発生する、とはのものの本にも書いてあった。とすると、回し方を逆、つまり反時計回りにすると同様に悪い業が生じるという解釈もありうるかもしれない。


振り返ってみよう。


合ってる。

複数同時マニ車回し (1) (1) (1)-min

合ってる。

遊具みたいにマニ車 (1) (1) (1)-min

逆だ。

逆マニ車2 (2)-min


これも逆だ。

逆マニ車 (1)-min


マニ車を回しながら坂を駆け下りたが...

駆け下り矢印1 (2)


回しながら駆け下りたということは...

マニ車矢印4 (1)

ダメじゃん。


たっぷりと業を背負った僕は、これからもマニ車を回し続ける。心を込めて。時計回りで。きっと幸せになる日を夢見て。

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