ひょっとこ堂エピソード ①

こんにちは!
宮崎の農作物加工チャレンジャー田中陽一です! 

今日から、ひょっとこ堂を立ち上げてから、工場を作り、商品作って販路を拡げようと取組んだ一連のお話しをして行きます。

『6次産業化したい』

『加工品開発して販売していきたい』

『起業したい!』

という方が読んでタメになる内容を書きます❗️

29歳で起業した男が、あまりに無計画だった為に総額1億円に借金が膨らみ、ボロボロになりながら一つ一つのことに体当たりして進んで行った記録です。 


2013年5月のゴールデンウィーク、29歳の田中陽一は埼玉県大宮市の伊勢丹にいた。勤めていた洋菓子店の催事で九州物産展に出店してケーキの販売をしていた。 

ちょうど3年ほど勤めた会社。宮崎でようやく見つけた仕事で、とにかく必死に働いた。
会社の業績も入社時から倍以上に伸びていた。 
3年間盆正月もなく、必死に走り回り息継ぎや充電する時間がなかったので、正直もう充電切れだった…

目の前にいる家族連れのお客さんにケーキの試食を渡すことにももう疲れてしまっていた。

『なんで俺は自分の家族との時間もなく、他人の家族連れにばかりこんなことをしてるんだ方ろう。』

『もう、辞めよう』

連休の催事期間を終えて宮崎に戻って会社に退社の意を伝えて退社した。 


もともと福岡で生まれ育ったけど、就職した先でも、その他のことも中途半端でむしろ『ダメ人間』な自分だったので、25歳で結婚した妻を福岡で幸せにする事に不安もあった。 
ちょうど妻も妊娠していたので、身重な時に出来るだけストレスを与える環境にはいて欲しくない。というかほとんど無職の状況だったので、まずは妻にとって安心できる環境を作ろう!と考えて、妻の地元である宮崎県高鍋町に移住して、そこで一から頑張ろう!と決意した。 

すぐにプラスの状態は作れなかったので、まずはマイナスを無くすことを考えてそう決めた。

むしろそんな無職の男の子供を身篭り、結婚を決意してくれた妻の方が何倍も腹をくくっていたと思うけど^_^

そうして2009年10月に宮崎に移住したけど、なかなか仕事を見つけることが出来ず、ハローワークに通い、高鍋町役場の期間限定の臨時職員で青色パトロールカーに乗りながら、引き続き就職先を探していた。 

(先日、懐かしくてパシャリ。高鍋町民ならお馴染みのこの車に乗ってました❣️2009年11月〜2010年3月)

しかし、なかなか意に合う会社に出会えず、3月に無事に長女が生まれた。 
そして役場の契約も終了。先の不安とストレスで、人生初の血便が出た。笑 
いや、全く笑えない。笑 

そんな時にハローワークの方から紹介してもらった会社が、その洋菓子店だった。 

面接の結果採用に。 
移住して5ヶ月してようやく就職することができたので、もうここでとにかく頑張るしかないと必死で働いた。 
初日朝6時前に出社して、帰ったのは夜の11時過ぎだった。 
ちょうど会社も県外での販売に着手していて、ものすごくかいつまむが、県外での販売にどんどん行くことになり、とにかく売れまくって、バンバン催事が増えた。2年目はほとんど家に帰れないくらい出張ばかりだった。 
3年目、すごく認めてくださってマネージメントの部分も任されたけど、無理だった。笑 

とにかくむちゃくちゃ必死で一つ一つ取り組んでたので、そりゃーミスもいっぱいして会社には迷惑掛けたけど、この経験はすごく自分に自信を持つことが出来た。 
自分自身への『ダメ人間』の烙印を消すことが出来た気がした。 

そして、冒頭の通り2013年5月に退社。 

辞めてから、次の就職先を探していました。 

⁉️起業しないの⁉️

って思いますよね?笑 

もちろん、いずれそうしたいという考えはありまさが、お金も対してないし、まだまだ経験不足だとそう思ってたのですが、ある人物の存在によって、話は急展開していきます。 


その人物は…

妻のお父さんです!

高鍋町で電気水道の設備会社を40年経営していた父が、ちょうど息子さんに代替わりするタイミングで、なおかつ洋菓子店時代に全国駆け回って働いていたことを認めてくださっていて、

『やりたいと思ってることがあるなら、力を貸すぞ!』

『(俺がこう言ってるうちに)鉄は熱いうちに打て!』

という熱いご声援を頂き、
創業を決意したのです❗️

こうして田中陽一の

起業への道のりがスタートしたのです❣️

明日はつづく…

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