ひょっとこ堂エピソード④

こんにちは!宮崎の農作物加工チャレンジャー田中陽一です! 

ひょっとこ堂の立ち上げからのエピソード話、第4話。
前回のおはなしはエピソード③
をご覧ください。

その第3話を見直してからこの4話を書いてますが、改めて見ても、決めた建物の大きさがデカいですよね? 
建物だけで100ヘーベーあるから、デカすぎますよね💦 
いや、全く後悔はしてないんですけど、何でそんなに最初から大きかったり、大胆に出来たのか?

それはいい意味で何も知らなかったから。

無経験だったから。 

そして、一生に2度あるかどうかのチャンスだと思ったから!

大きければ大きいほど、

成果も大きく得られると思ったから❣️

欲がどんどん出てきたから❣️

でも、

その分失敗した時のリスクもデカいから❣️

そこは考えられなかったみたいで…


ーーーーーーーーーーーーーーー

工場の建物と土地の売買契約や設備機材の発注段取り、銀行の借入れの段取りを進めていき、同時に販路の準備に入る。 

どんどんと設備投資規模が大きくなったので、販路も大きく大きく考えるようになっていた。 

導入する設備のスペックで計算すると1日最大15000個のゼリーが作れる。
これたけ作れるのなら、販路もドンドン広げられる。 

宮崎には販路のつては無い、
ならばいっそのこと県外、首都圏を狙って外に売って行こう! 

そう思い、3話でお話しした昔勤めていた系列の会社の方を尋ねて地元福岡へ。

派手で、バンバン大きな仕事を決めているイメージで、この人の力を借りることが出来れば全てスムーズに進むと思った。 

ことの経緯や販路を拡大して行きたいこと、その為に力を貸して欲しいことをお願いした…

結果はオッケー。 

百人力だと思った。 

 
その後、会社を登記する準備も順調に進み、

2013年8月6日に株式会社ひょっとこ堂は設立された。

実際の借入れもその後で、融資実行と共に設備の発注や工事の開始、いろいろと慌ただしくなりはじめる。 

そんな頃、父と話して、生活の出費を抑えることなどを考慮して妻の実家に同居することになった。 

迎えた同居初日、どうもお腹が痛い…

相当痛くて意識がもうろうとしていた…

病院に行ったら『憩室炎けいしつえん』と診断されて入院することになった。笑 
ストレスなどが原因らしいが、とにかくセンセーショナルなマスオさんライフの始まりであった。笑 


少し時を早送りして、2013年12月。 

無事に全ての工事と機会搬入が整い、工場の竣工式を執り行った。 

この頃にはあの先輩の仲間が増えていて、東京の物流関係の方もよく交流していた。 

その人は副業の形でデザインなども受けていたので、ホームページやロゴ、ゼリーのパッケージなどをそこへ発注した。 

この頃には例の先輩にもその人たちにも毎月顧問料を払って動いてもらっていた。 

とにかく繋がりが多かったので、色々と紹介をしてもらい、夜の飲食接待をする。 
彼らはそこまでが仕事と言った形で、それから先は僕が直接やりとりして、その進捗を随時報告するという流れだった。 

いよいよ工場が動き出す頃だが、具体的な販路は何も決まってなかった。 

卵が先かニワトリが先か…

そんな話だが、
『商品が無ければ販路は広げられない。』

そんなこと言われ、
父からは販路はどうなってるかと言われて板挟み。
大手コンビニの本社や誰もが知ってる乳酸菌飲料メーカーの社長など、雰囲気としては良さそうな出会いは有るけど、実際の身は全く詰まっていなかった…

この時、例のあのゼリーフィルムが出来上がる。

紹介の紹介みたいな形でよその食品メーカーの人が大手乳業メーカーの物流問屋さんを紹介してくれた。

そこの問屋さんはすごく弊社のことを応援してくださり、社内に掛け合い、大きく取り扱って下さることになった。 

先輩にそれを報告すると

『すごいな!やったね!あの会社と取引きするなら安泰やん!』と言われ、
中洲で祝杯となった。 

会員制と書いてあるクラブ。 

黒革の手帳みたいなお店。

先輩の行きつけのお店だった。 

ちょっと、まだ実際の取引きも始まってないし、あなた達への毎月のお金の負担も大きいし、もっと頑張んないとヤバいんだけど…
なんてことを思ったりもしていたのだが、

あの派手でやり手な先輩のステージに俺も一歩近づけたのかな。

テレビドラマや課長島耕作で観たような大人の世界。 そんなものに足を踏み入れたような気がして、少しだけ、優越感も感じていた。

その問屋さんの方がすごく動いてくださって、3月には初の取引が始まり、月に200万程の注文が入った。 

だがこの時、未経験が故にとにかく取引を、販路を増やすことに取り組んでいたので、
販売店(スーパー)などへ商品を運び集金をする役目の問屋さんへ、商品を卸すので、当然値段は販売価格の何%と相場が決まっている。 

知らないから、
この金額で販売したいなら
この金額でうちに収めて欲しい。 

とにかくその金額で対応して、取引開始を優先させた、
その結果、実際には1個売っても数円のも利益しか無いような取引をしていた。
(この問屋さんは何も悪くなくて、僕がとにかく浅はかでした。)

お金は出ていくばかり…
月末の支払日にあと200万足りないとか、そんなことばっかりだった。
もう頭の中には

お金、お金、お金、お金、お金、お金、お金、お金、お金、お金、お金

それしかなかった。

とうとう父がシビレを切らして、
あの先輩とその仲間たちと契約を辞めるように言われた。 

でも、俺は言えなかった。 

怖かったのだ。 

今まで信じてた可能性が消えることと、
その先輩を敵に回すことが。 

しばらく誤魔化してたが、結局父から直接その先輩たちへ契約打ち切りの連絡がされた。 

父へは二つ返事だったが、僕へは血相変えて電話が入った。 
実際にはその後ずるずる半年程、縁を切るのに時間がかかった。 
会社から支払うことが出来なくなったので、個人で取り繕うようにお金を払うようになった。
この時に消費者金融で借金をして彼らや彼らとの接待費を支払うようになった…
あの問屋さんを紹介してくれた別の食品メーカーの営業マンからも紹介料を取られた。

情けない。 

この時、どんなことになっても、なんではっきり言わなかったのだろう。 

言えなかったのだろう…

弱いから

自分がかわいいだけで

大した努力もしないで、

人の信用で借金して、

形格好ばかりのことをしてたから。

大したような振る舞いで見栄を張っていたからだ。 

本当にクッソみたいな人間だ。
こんなに自分がクソだと思えたのは
初めてだった。

そうこうしている間に新しい販路もたいして広がらず、2014年の夏が終わった。 

それと共に問屋さんからの注文もピタリと止まった。 

そりゃ、スーパーに秋も冬もゼリーはたくさん置いてないもんね。

2014年9月。 

父から

『もう無理だ。やめろ。』

と言われた。 

何も言い返せなかった。

どこかで、ホッとした自分もいた。

もう長いこと地に足がついてない状態だったから。

この頃にやっと、例の先輩たちともきっぱりと縁が切れた。 
というか、こんな状況になってやっとだ。 
最後の最後も手切れ金のように夜の接待費で例の高級クラブの請求書が来た。 
何回か払ってたのがバカなのだが、
一晩の請求額が15万とかのクラブだった。

また消費者金融の借金が増えた。 


本当に会社をつぶすという話になった。 

当時いた従業員さんたちにも解雇を伝えた。 

お世話になった問屋さんにも会社を潰すことを伝えてお詫びした。 

馬鹿でかい工場に妻と2人になった。 

でも仕事もなかった。

その工場も設備を画像と共にリストアップするように父に言われた。 


父はそれを持って、ここを身売りすると言い、あてのある人を連れてくると言った。 


それは僕が前職で勤めていた洋菓子店の社長だった…


情けない
悔しい
自己否定の気持ちが激しすぎてその場から逃げることしか出来なかった…


つづく
(つづくの?笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?