定石と感性

ヒカルの碁っていうコミックがある。

平安時代の天才囲碁棋士が現代の小学生に取り憑いて、
やがてその少年が囲碁に目覚め、神の一手を目指すという物語。

この天才囲碁棋士の霊は江戸時代に本因坊秀策に取り憑いていて、
本因坊秀策の活躍はこの霊の仕業という設定になっている。

最初、霊に取り憑かれた少年は霊の言うがままに囲碁を打っていくが、
これが現代では(やや旧いと言われているが)定石となっている手。

その定石を少年は自分のものとして身につけ、
やがてその定石に自らのひらめきを加えて囲碁を打つようになる。

感性ってよく耳にする言葉があるじゃないですか?
これって、つまり、どういうことなの? って思ったのです。

もちろん言葉の定義としては知ってるけれど、
実際それってどうなの? というシーンに出くわすことが多いのだ。

感性を磨く、感性を身につける、感性なら負けない、感性がある、なんか違和感のある表現に思える。

なんか大事なことをウヤムヤにするために使っていませんか?

カンセイって。

なにかをやろうとした時、まず、知でどんなことができるか、そして知でできないことはなにか、その時に初めて感性というものが役に立つのだと思うのです。

知とは定石のことであり、今風にいうとナレッジのことでもある。

感性を活かすためには、まず、知があることが必要なんだと、
そして、その知は自ら努力しなければ身につかないのだ。

「あれってな〜に?」「ああ、それはね。。。」

簡単に手に入るものは簡単に手からこぼれ落ちる。

指揮者の小澤征爾がこんなことを言ってました。

音楽にしろ、なんにしろ、本物に触れるほうが理解が深まる。
音楽であればレコードで聴く、DVDで観る、コンサートを聴きに行く、
この順番で本質に迫ることができ、理解することができる。

フランスの小説家、アンドレ・ジイドはこう言ってました。
"芸術性には悪魔との握手が必要である"

これは芸術のために文字通り悪魔と握手をするのではなく、内省的な精神活動の中で一瞬の鳥の影にも怯え、合目的性を持って理論整然と必然の歯車を並べていき、突然出会う無意識の瞬間を言ってるのだと思う。

つまり、合目的性を持って理論整然と必然の歯車を並べることが「知」の集積であり、突然出会う無意識の瞬間こそが「感性」なのだと思う。

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