悪気はあったほうがよい

「ゴメン、悪気はなかったんだよ。」っていうやつ。
「そのほうがいいと思って。」っていう。

ずっと、この言葉に違和感を持っていて、自分自身もよかれと思ってしてしまったことが、逆に相手の気分を害してしまい、こう言って詫びたことがあります。

でも、悪気がないってことは別に良いってことじゃなくて、その相手の風景が見えてないってことに起因するのじゃないかと。だからされた自分からしてみれば「悪気」はあったほうがいいです。

だって悪いって、わかってやってるんだから。
悪いってわかってないほうがたちが悪い。
わかってないと説明してもわかんないから。

この説明してもわかんない、通じない、同じ言語を共有しているのに伝わらないもどかしさ。

なんとか伝えようと手を変え品を変え、喩えをつくり、説明する、と、相手は一瞬「わかった」と言う。説明っていうのは相手がわかるまですることだから。

でも、また、おんなじことを繰り返す。

銀座一丁目の交差点、赤信号で渡ると危ないよ、って説明をしてわかってくれても、銀座四丁目の交差点は赤で渡っちゃう。

説明している側からしてみたら銀座一丁目も銀座四丁目もおんなじ交差点なんだけど、説明されている側にはそれがわからない、伝わらない。

でも、ここまで説明しないとわかんないというのは、そもそもお互いに肌が合わないんじゃないかと思ったりします。

つまり相性が悪いってことなので諦めることにしました。なぜなら相性が合わない人との方向性について、自分とソリが合わないとどうしようもないと思ったから。

人生で出会える人、という母集団はもとより時間に限りがある以上有限で、それどころかごく限られていて、出会いそのものは大切だけど、ソリの合わない人に無理に関わり合って時間を潰すくらいなら、もっとうまくいきそうな相手と関わったほうがいいのではとの考えに至りました。

出会いは一期一会で、その時うまく話が弾むかどうかでしょう。
たとえこちらの思い違いで有為の人物を失ったのだとしても、それはご縁がなかったということです。

その一方で、相性が良いと、互いに相手が欲しい物がわかるのでグンとラクです。

それどころか、欲しいと思っているところをワザと逸らして焦らしちゃう、みたいなこともできるので、相乗効果でそれはそれでとても楽しい。

だけど、仕事においてはお互いに「なんだかちょっとヤダな。。。」と思っている相手のほうが、いい仕事ができることが多い。これもなんだか不思議なんですけど、これは相性とは別のものだという気もします。

まあ、そんなことをつらつらと考える、連休でした。


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