ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

神学についてもほかのことと変りはない。芸術といっていい神学もあれば、また他面、科学といっていい神学、少なくともそうあろうと努めている神学もある。それはいまもむかしも変らない。そして科学的な人は、新しい皮袋のために古い酒を忘れ、芸術的な人は、数々の皮相な誤りを平気で固守しながら、多くの人に慰めと喜びを与えてきた。それは批判と創造、科学と芸術、この両者間の昔からの、勝負にならぬ戦いだった。その戦いにおいては、常に前者が正しいのだが、それはなんびとの役にもたたなかった。これに反し、後者はたえず信仰と愛と慰めと美と不滅感の種をまき散らし、たえずよい地盤を見つけるのである。生は死よりも強く、信仰は疑いより強いから。
 川の水面は、あるいは青く、あるいは金色に、あるいは白くきらきらと光っていた。往来の並木のほとんど葉の落ちつくしたカエデやアカシヤの木のあいだから柔らかい十月の太陽があたたかい光を投げていた。高い空は雲もなく青く澄んでいた。静かな清らかななごやかな秋の一日だった。こういう日には、過ぎた夏の美しいことが残らずほほえましい悩みのない思い出のように柔らかな空気を満たすのである。またこういう日には、子どもたちは季節を忘れ、花をさがしにいかなくてはならないように思い、じいさん、ばあさんたちは、その年の思い出ばかりでなく、過ぎ去った全生涯のなつかしい思い出が澄んだ青空をありありと飛んでいくように感じ、思いのこもった目で窓や家の前のベンチから空中を見るのである。若者たちは上きげんで、それぞれ持って生れた能力や性質に従い、たらふく飲むか食うかして、または歌うか踊るかして、または酒宴かおおげさなつかみあいをして、美しい日をたたえる。どこにいっても新しいくだもの菓子が焼かれており、どこにいってもできたてのリンゴ酒やブドウ酒が地下室でわきたっており、料理店の前やボダイ樹広場ではヴァイオリンかハーモニカが一年の最後の美しい日を祝い、躍りや歌や恋の戯れに誘っていたのだから。

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