生活の柄

19.5.6(月) 「書く」について

「書くこととは、考えることである。」

とある本に書かれたこの一節に、僕は目から鱗が落ちる感覚を覚えた。
なぜならそれが、最近抱いていた「人は何のために文章を書くのだろう」という素朴な疑問に対して、ピッタリとハマる答えだったからだ。

書くことは、考えることである。
考えるということは、分かろうとすることだ。

何か得体の知れないモノや感情に対面した時、僕は一度考える。
でも大抵それだけでは分からないので、頭の中にあるもやもやを言語化して、分かろうとする。「書く」という行為を通して物事の解像度を上げることで、不透明なことへの恐怖を和らげようとしているのかもしれない。

ただ、考えることは難しい。分かろうとすることはとても疲れることだ。
そもそもインターネットを開けば幾多の正解が落ちているし、親指を立てれば大抵のことを「いいね」の一言で片付けれる今日においては、いちいち考える必要なんてないのかもしれない。できれば分からないままにしておきたいこともある。

でも、分からないまま、ボーッとしているうちに、色々なことが瞬く間に目の前を通り過ぎていく。日常は淡いコントラストを描きながらゆっくり、だが着実に進んでいる。

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話は変わり先日、友人の葬式に行った。
よく晴れたおだやかな日、会場近くの桜は花が咲き誇っていた。

会場の前にはすでに参列を済ませた懐かしい面々が屯していたが、気もそぞろに棺に向かう。棺を覗き込み、すっぽりと納められたそいつの姿を見た時、慣れない光景に理解が追いつかず、思わず感情が0になる。目の前に佇む「死」というものをすぐに受け入れることが出来ず、何度も、何度もその姿を確認した。

花見の日に突然いなくなってしまったそいつは、いつものように大酒を飲み、いつものように潰れて眠って、唯一いつもと違ったのは、そのまま目を覚まさなかったことだけだったらしい。

何かと誤魔化しの効く世の中において、「死んだら二度と会えない」という事実を突きつけられた僕は、人の死に思い出を重ねて美談にできるほどの語彙もなく、「R.I.P」の三文字で祈ることにもどこか違和感を覚え、「もう、いないのか。寂しいな。」と思うしか出来なかった。

気づけばそんな日から、早1ヶ月が経った。
あれだけ咲き誇っていた桜の木々にもすっかり緑が生い茂り、また夏の匂いが香ってきた。死んだ友人のinstagramの更新は止まったまま、もう永久に動かない。

冒頭の繰り返しになるが、書くことは考えることだ。
そして、考えることは分かろうとすることだ。

幸せとか、死とか、愛とか、正義とか。
相変わらず、よく分からないことがプッシュ通知で知らされ、そして一瞬で目の前を通り過ぎていく。その度に色々考えてみるけれど、結局答えなんてこれっぽちもでやしない。きっとこれからも分からないことばかりだと思う。

でもこの日々の繰り返しの中で、何も分からないままではあまりにも寂しすぎるから、せめて格好だけでも分かろうとしたくて、これからも文章を書いてみようと思った。

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