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さびしさということ(思い出の日記)

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです。

午前中は教会。イエスさまの誕生を記念する礼拝。

「さびしさ」ということについて、自動書記的に書いてみる。推敲もせず。思いつくままに。

どんな人でも、さびしさを感じるときがある。どんなにお金持ちでも、貧乏でも。たくさんの友達がいても、いなくても。年齢にかかわらず。季節によらず。

すぐにさびしさを紛らわせることができる場合もあるし、そうできない場合ももちろんある。軽いさびしさを感じるときもあれば、底知れぬほどの深いさびしさに悩む場合もあるだろう。まあ、要するに、いろいろある。

さびしいのは誰だっていやなものだし、たのしいのは誰だってうれしい。それはトートロジーに近い。でも、ときどき、結城は《たとえいやだとしても、それが大切な意味を持つ場合がある》と思ったりする。さびしさを通り抜けてはじめて知る何かがある。あるいは、さびしさの中でしか発見できない何かがある。誰もがいやがり、先を争うようにして抜け出したがる――のだけれど、そこで、ぐっと、こらえて、もがくようにして――それでなければ得られない何かがある。結城はときどきそんなことを思う。

イエスさまが祈るとき、しばしば山の上にいったり、荒野にいったりする。群衆から離れ、喧噪から離れ、たったひとりの「さびしい」ところに行く。そして祈る。誰しも、そういう時が必要なのかもしれない。

ことさらにさびしい場所に居続けるのは不健康だと思う。けれど、ひととき、表舞台から姿を消し、じっと「こもる」時も必要なのではないかな。そこで、自分一人で過ごす――いやいや、そうではなく。ほんとうの自分。裸の自分になって、神さまと語り合う(もしくは本音を神さまにぶつける)。それは、とてもとても大切な時なのではあるまいか。

そんなことを思う、日曜の夜。

 * * *

※2007年12月23日の「結城浩の日記」から。
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※以降に文章はありません。「投げ銭」感謝。


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