『鉛筆』#44

時折訪れる「鉛筆マイブーム」がある。また、近いうちにやってきそうな気配がある。
湯島にある国立近現代建築資料館でやってる、日本の建築ドローイング展をみてきた。磯崎新のシルクスクリーン、象設計集団のコンセプトエレベーション、毛綱毅曠の曼荼羅、など、設計図書だけでない“紙の上の建築”が展示されていた。それは建てることを必ずしも最終目標とはしていないものもあって、そこにあるのは建築家の思考と志向を発露させる・伝える・アピールする・知らしめる、といった自己の強い強い、たいへん強い熱量の主張を載せた線、塗り、重ね、、線。
そのなかでひときわ目を引いたのは、やはり、高松伸の鉛筆ドローイング(建築家に関してフルネームで記載するときは敬称略してしまうな。いや建築家だけじゃないか?)だった。彼のドローイングの凄さは元より知っていた。「ARK」に「織陣」、学び始めの建築雑食な頃に雑誌か何かで見て多大な衝撃を受けた。「これが鉛筆で描かれたものなのか」という技術への驚きと、「これは建築なのか」という姿への驚き。ふたつ。美しい直線と曲線で削り取られた輪郭線と、面の肌理・光沢・影を生み出す無数の斜線(ストローク、と彼は言う)とが、一見して建築とは判断し難い絵に、迷いを飲み込ませる強い魔力を与えている。
会場の中、展覧会に際して行われたインタビューの約10分ほどの動画があった。展覧会のテーマである70年代から90年代の当人のヒストリーに加えて、ドローイングに関する話もあった。鉛筆の削るという行為はとても重要で、線を書いて、鉛筆を削り、鉛筆を削るうちに建築を捉えていき、その捉えた姿を線に起こしていく。その繰り返し。彫刻のような作業、とも言った。また、描き出すエレベーション(立面図)にはスケール感覚を失わせる向きもある。展覧会中の「先斗町のお茶屋」に関して、ヒューマンスケールはなく、200メートルと高さに見えるかもしれないし、とても小さい建物に見えるかもしれない、とまで言う。
その話を見、聞いているうちにふとまったく違う話を思い出していた。「いっぽんの鉛筆のむこうに」という話。小学生の時に国語の教科書に載っていたんだと思う。あのころは、鉛筆に使う黒鉛を採掘するポディマハッタヤさんの名前の珍しさにきゃあきゃあと騒いでいたけれど、教科書で全員であの話を読んだ後の、手の中にある鉛筆が黒鉛と木でできていて黒鉛や木を削ったり外国から運んだりする人がいてその鉛筆を買い与えてくれた親のことを思い出して、それまで噛んだり折ったり誰かのを隠したりと扱われていた鉛筆がすうっと大事にされた日々を妙に生々しく覚えている(それも長くは続かなかったが)。いま、グーグル検索をし、内容を確かめて見たらポディマハッタヤさんはなんと地下300メートルまで下りて黒鉛を採掘している。先斗町のお茶屋の見立てよりさらに100メートル違う。
黒鉛を削り出して木材を削り出して組み合わせた鉛筆を、またこの手元で削って小さくすることの、グンと長い時間スケールと空間スケールでくらくらしてくる。私はシャーペンにもくらくらできるだろうか、ノートにもくらくらできるだろうか。小学生の時のあの体験なしに、感動できるだろうか。できればいいな、ありがたいなと、心から願う。

#鉛筆 #180131

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