『象』#356

象の話を開始するより前に。
いま、読んでいる本のひとつに山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社新書2017)というのがある。まだ数十ページしか読んでいないけれど大枠は初めに紹介されていた。そのなかで特に驚くこともなかったし目新しい話であると思ったわけではない、けれど改めて言われるとじわじわと気になってくるなあ、といま感じている内容がある。本の中では、ビジネスにおける判断には「理性と感性」「論理と直感」の二軸があるとし、その比重について、日本では理性や論理に重きが置かれているとある。ビジネス、経営における判断に、論理的に説明のできないものは採択できないとか、(理性的な)判断材料が足りないとか、そうして決定ができず遅れていくような傾向があるという。それを読んでいて私も「あーわかるー」「ちょーわかるー」とスラスラ読んでいた。自分自身も、仕事において何かを判断を必要とする際、やたらに必要性とか客観的妥当性とか論理性とかで「(選択肢の中の)どれを採択しようか」と考えて漏れのないものを選ぼうとする。そこ、そこの点でいま、『象』について書こうと思わされた、というよりは、ある脳への刺激があって、その脳の刺激を言語化するにあたり妥当なものとして『象』をいまテーマとした。
ちなみに本の中では、過去の単純化可能な社会でなら論理性や客観的妥当性から最適解を選ぶことはできたかもしれないが、複雑化する社会では、全方位的に論理性や客観的妥当性を得て判断しようとしても“判断材料が足りない”ということになる。つまり、複雑に物事が絡み合う事象の判断について、完全な正解を得ることはできない。そのうえで、何か判断をしなくてはならないときに、論理や理性を偏重することなく、真善美に基づく直感的・感性による判断をできるだけの“美意識”を磨くべきだ、という。
それで、やっと本テーマの象の話。なぜその話から象を登場させたかというと、「最強の動物は何か」というおそらく誰もが一度は人に聞かれたり漫画で読んだりテレビで見たり、何かしらで触れたであろう問い、この問いに対する答えのひとつの『象』というのがまさに、論理を積み重ねて判断をする事例の一つだなあ、と思ったのです。そして、客観的妥当性に欠いて反論を受けるであろうが、直感的に頭に浮かんで答えたくなる『ライオン』だって、決して間違いではないんだろう、ということも思ったのです。
その、反対というか裏面というか、別アングルの話がある。中村航さんのある小説では、「最強の動物は何か」という問いに、自信満々に論理を組み立ててしかも前々から温めていた持論をもってして「熊」を挙げた吉田くんが、その場でうーんと考えたママ(義母)の「象」に屈したこともまた、今回の事象のB面を見るようで、とても面白いなと思ったのでした。
“論理と感性は相反しない”という小説も確かあったな、しかも持っていたはずだ、読み返したくなった。

#象 #181209


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