『正午』#297

チッ、チッ、チッ、ポーーーン。
午後はまるまる、おもいっ◯りテレビ。
ひとが迎える正午のタイミングは、テレビにあるか時計にあるかスマホにあるか、何かしらの媒体があって「あ、昼だ」と迎えられるものであります。どういうことかって、体内時計で「あ、昼だ」とか、いや、昼ごはん食べるくらいのお腹の空き具合になってきたぞ、とかならありえる。「あ、正午だ」と、これはどうしたって身体で知覚できない、うーん、どう言ったらいいだろう、時計無しに「正午」はありえない、と言おうか、つまり身体の中には無い、と言おうか、ここまで書いたら察してくれる人は察してくれるだろう、でも、むしろ初めのうちに「あぁ、たしかに正午は媒体無しには知覚できないね」とわかってくれてた人にとってはここまで言葉を補い続けてしまうと却って余計な疑問を生んでしまうこともあるかもしれない。
結局、言いたいことは、正午は受動的にしか知覚できない。ということ。勿論、別の午後1:32:45とか、そういう時刻の瞬間の概念も、時計無しにはわからない。太陽と影で測る日時計だって日一日と変わってしまう。もしかしたら過去の感度の高い人類は、太陽が南中した瞬間の高度、上がっていく過程と下がっていく過程の境目を感じ取ることができたかもしれない。それでも、瞬間は18分の1秒しか捉えられないし、時刻は時計をパッて見て表示を確認して脳が認識するまでのタイムラグがごくごくわずかな時間でも経過してしまうわけだから、人間は“分”と“秒”までで、簡単に言い切れる単位を留めた。
前の記事で午前について、書いているうちにふと、瞬間概念について思うところがあって、どうせならと思い正午を取り上げてみた。午の刻。か。そのへんの“正午”、“丑三つ時”、“子の刻”、あたりの時代劇とか古い慣用句に出てくる単語以外でとっかかりがないため深掘りはしないけれど、いつまでもいつまでも“正午”が一般名詞として使われていく間はずっと、十二支と時刻の関係は古典として残っていくのだろうな、と、遠い未来にも語り継がれて残る言葉について、想いを馳せてしまう。
テレビで数秒前から、
チッ、チッ、チッ、ポーーーン。
と時報が、アナログ時計の描写とともに放送されるのもきっと変わらないのだろう。
午後もまるまる、思い切りのよいテレビが続くことはないのだろうとこちらは涼しく見やる。

#正午 #181011

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