『消しゴム』#75

さっき、特典にもらった。久しぶりに手にした。白い本体に巻かれたカバーにはアルプスの少女ハイジと宣伝広告とが描かれている。私自身に子供がいて親に回ってきたパターンもなく、ハイジ導入からはまだ数年しか経過していないので大学当時にバイトしてましたともならず、出どころがバレバレになりそうなので外で使うにはなかなか戸惑う。
いま、大人になったわたしは一個まるまる全てを、使い切って消しカスにすることができるだろうか。
色々ある物品のなかで、「使い切ることが難しい消耗品」に等級があればリップクリームと並んで特Aあたりだろう。どうにも紛失係数が高い。
ただ、小学生、中学生の頃は紛失に加えて損壊による使いきれなさが大きかったように思う。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、と。あのころの教室に定点カメラを置いて長時間露光撮影をしたならば。落ち着きのない幾多の生徒の残像と、飛び交う消しゴムの放物線とが、写し撮られるのではないかと思う。あと手紙も数枚飛ぶかどうかといったところ。チョークが飛んだことは見たことがない。並行世界での出来事だろうと思っている。
やがて損壊なく使用し続けられるように成長したわたし達は高校生となり、筆箱とペンケースの中で落ち着けることができた。そして使い切る道筋が見えたはずなのだ。そのはずなのだが、わたしの記憶には無いのだ。いや、着々と擦り減らしてカバーを短く切った記憶はある。しかし、抜け殻となったカバーを処分した記憶が無い。きっと達成感も伴っていたはず。それが、無い。あのころは、MONOだった。トンボ鉛筆の。青と黒と白。ニュートラル、というか、王道、というか、変な癖とかこだわりとか色気を出すでもなく強度のあるブランド的な存在がマイブームのようだった。消しゴムがカバーの縁で切れてちぎれる問題には、伊東家の食卓かなんかで紹介されてた四つの角に切り目を入れる裏ワザとか、カバーを外すとか、そういう手数無しに、とにかく長手方向の力をかけて、弱軸・短手方向に動かして消す方法を避けた。切れてちぎれることなく、なおかつ狙ったところを消しやすいテクニックだった。それはその後にも生きる。
大学に入ってからは、使う頻度がグッと減った。1年の後期から始まった建築デザイン演習(だったと思うけど授業名これだったかな)で川西先生から言われたことを全面的に受け入れて取り入れた。思考の軌跡は消すな、消せるシャーペンなんかで書かずに消えないペンで全ての軌跡を残せ、と。それまで、アイデアや文字での思考をシャーペンで書いて、気に入らなかったり発展性がなくて伸びないなと思った案はちまちまと消して、新しい案を上書きしていた。ノートをケチったとも言えるし、ダサい記録を残したくなかったとも言える。両方だ。ただ、それじゃあいけないんだ。案を考えて、それがダメで、次のを考える。そのとき、元の案を振り返って真正面から見つめて多面的・多角的に反省して、乗り越えなくてはいけない。消してしまってはいけないのだ。あのときの、意識の死角を突かれた感覚は非常に強く記憶している。思考の軌跡は消せないように残す。それ以来でも当然、線と文字を消して書き直すことはあって、その理由のひとつには「正確に書くために消す」ということがある。一枚を完成させるための修正作業。ただ、全体の筆記のほとんどはボールペンだ。かつて書いたように、JuiceUpの0.3mmブラック(ブルーブラックのマイブームは一旦沈静化した)。
だからいつのまにかペンケースの中から無くなっていることもあって、まさにいまがそれで、また一個使い切れずに失ってしまったということになる。

#消しゴム #180303

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