『地震』#311

この通し番号からは、これかなと、直感的・反射的に打ち込んでいた。地震がこの311って数字を特別にした。
それからの約8年間、何度か記憶に残る大きな地震があった。続く余震も加えて長野、熊本、そして今年は北海道の胆振。海外のスマトラやペルー、イタリアでもあったかと思う、けど、どの地震も、わたしは情けないことに日付を覚えていない。1995年1月17日の阪神淡路は、体験として残っていない歳だったけれど、これは発災の日付は覚えている。「風化させない」と言葉にされること多く何度も思い出す機会を作られるか、ものすごい大きな衝撃・体験として自分に残っていないかでないと出来事は身体に入らないらしい。熊本のことであれば、熊本城の石積みの大部分が崩れてしまってなお城自体が残っているその姿がくっきり脳内にあるし、長野であれば父方の実家にも少なからず影響があって古い民家の束を支える石がずれて床がぺこぺこに凹む箇所があったり柱と梁の結合部が動いたために土壁がボロボロと割れて竹小舞が見えているところが出たりと目に見える形で地震の痕跡がある。北海道の胆振は、それでは、3年後に私はこういう文章をまた書こうとした時に思い出せるか、恥ずかしながら自信を持っては「思い出せる」と断言できない。
2011年の3月11日にあったその地震については、大学で建築を学んでいる時期だった、そのこともあって関わる機会もあった。忘れるわけにはいかないし、それ以上に「どれほど知れているか」が大きく大きく振る舞いに作用すると強く感じていた。だから、発災の2時46分という時刻にしても迷わず思い出せる。宮城県の牡鹿半島の表浜と裏浜での影響の違いも、それからの建築界隈の動きも、全力で追えた自負まではないが、注視しつづけている。
ある出来事がある人にとって深く刻まれること、そして、地理的にも社会的にも人間関係にしても、広範囲に衆目を集めて、活動を生んだ出来事は、いましみじみと思うことで、「そのとき何が起きたか」「それから何が起きたか」こうした情報を非対称にせず正確に伝えて、正確に知らねばならないなと思うもので、約70年前に戦争が終わって、あのころ決して忘れられることがなかったであろう終戦記念日や2つの原子爆弾が落とされた日、それに東京大空襲があった時期、これらがいま「不確かな記憶」として若い私たち、私たちより若い人たちにぼんやりとしか、わかりえない状況、この各人間間の温度差は、あるものとして考え続けなくてはならないのだろうなといま思うのはまたこうしてポッと、通し番号がリンクして思い出すタイミング以外にもあるべきだろうとして、遠い目をしながら指に任せて打つばかりでまた、ゆゆし。

#地震 #181025

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