『なんとなく』#43

建築学科に入ってから格段に使う頻度が増えた単語は「コンセプト」とか「プラン」とか「建築」とかたくさんあるけれどそのなかで建築を少し離れた今でも同等の専門性で使ってしまう単語のひとつが『なんとなく』。
なんとなくそんな気がする。
昼前に仕事終わってしまって時間が空いた昼から夕方は優雅に山手線を寝過ごして代々木下車。夜の表参道での用事に、先立って近くに行っとこうと渋谷で降りるつもりだった。代々木駅から電車で戻るのも癪だし、何より下車してみてハッと思い出した大きな大きな存在、新国立競技場の施工現場を見てこようと思った。設計者選定までのプロセスには不義理と悪意からくる不満がたっぷりあって、我関せず、ってな態度でいたかった。とはいえその拗ねた心は、知る機会、貴重なチャンスがあると思うとヨソにおいておかなきゃいけないと思い、じくじくと20分ばかし歩いた。代々木からなのにぶらぶらしてたら着いたのは南西側、たしか、たぶん第1コーナー側。圧倒的なデカさが、横方向にも縦方向にもあった。ぐるりと時計回りに一周してみても、ほんとうにデカいなと思うばかり。溶接された階段がそこここに見えて、現場の職人さんたちと対比して改めてスケールの大きさが尋常じゃないとわかる。大きさにただ圧倒されるばかりの遊山。
それから近くのベローチェでコーヒー飲みながら本を読んで按田餃子へ行きたさ募らせ、17時半、表参道へ向かう。
青山ブックセンターでの、写真家・奥山由之さんとデザイナー・葛西薫さんのトークイベント。盛況満員。先月出版された奥山さんの写真集に因んだトークで、装丁をした葛西さんと打ち合わせ過程やデザイン決定過程の話が主に。内容をここに全部書くつもりはなくて、自分の胃の中で渦巻いている、なんとなく釈然としない部分について。
2015年末に奥山さんが写真集「BACON ICE CREAM」を出版して写真展もやってーーそれは私も見に行ってそれはそれは激烈ショック、「同い年で、こんなかっこいい写真撮って、ていうかかっこいいことをやれる人間が、作品が、」悔しさと憎らしさすら感じる写真たちだったーーその頃から一気に名声を集め高め、彼に聞こえくる、見た人たちの多種多様な解釈と、全体的に「なんとなく、奥山由之の写真でいい感じ」という雰囲気・感じが一人歩きしていることなどから、東京にいられなくなって各地を転々としたという。彼自身が彼自身の作品を解釈しきれていないことも、悩ましいことだったという。今回の写真集に掲載されたのは、長野へ引っ越した彼の友人夫婦と子供とその他周囲の人々の、暮らしの風景であり、そこで彼がやっと“シャッターを押せるようにな”って撮った写真が半分、それが四章立ての二章分、もう半分は抽象的ながら水・生誕・赤子に接点を持つ写真。これら全てに、まずそもそも彼の決まりごととして、作品に関して必ず解釈を与え・掴み、選んだ作品がなぜ選ばれたのか、明確に言葉にするよう心がけていると。その、選択に関しての発言がガツンと響いたし納得もできた。要旨は次のようなとこで、「言葉で言えない“何か”って言ってしまうとそれまで。アーティストぶっちゃう」「できるかぎり解釈をして選択」したい、と。
奥山作品を“色と刹那感とも言えそうだけど、パッと見てかっこいい”、“見ればなんとなくわかる、奥山由之の作家性がすごいと思う”、そんな風に捉えてきた私にとって耳は勿論、胸も痛む喋りだった。
先月わたしは山鳥重さんの『「わかる」とはどういうことか』(ちくま新書)を読んで、“心像”の概念を用いて「わかる」ことのイメージを捉えた。奥山さんにとって自分の作品は写真としてそこにあり、なおその撮ろうとした視界・構成された“心像”でもって、写真に言葉を丁寧にあてていく、解釈を与えていくことができるのだな、とわかった。わかった気になった。
結論、わたしの「なんとなく」に包まれて手付かずの“心像”を、これからどれも取り出して言葉にしていく訓練をしないと、生きながら死ぬ。2018年の1月末、焚きつけられて私は熱を帯びる。1700文字近くになってしまった。

#なんとなく #180130

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