『ラジオ体操』#273

朝6時半の公園のベンチに置かれるラジカセはいま、スマホに変わっているのだろうか、そんなことをふと思った朝。ただいま5時55分。
朝早くに起きて支度をして公園に向かうのは億劫だったけど、親に行けとも言われるし、朝の空気自体は気持ち良いから嫌いじゃないし、あの、小学生だけでもなくおっちゃんおばちゃんみんながラジオの前に集まってくる感じはなんとなく面白い空間で、嫌いじゃなかった(2回目)。
日一日と小学生は減るなか、おっちゃんおばちゃんの数は減らない。そうしてどんどん、年寄りの空間になっていく。学校で友達と「ラジオ体操いかんの」と話したら、眠いからってことと、めんどくさいってこととで行かない理由は多くを占めるけれど、あまりみんな口にしなかったけれど「年寄りの集まった感じがなんか居心地悪い」っていう理由もあったんじゃないかなあと思う。なんとなく「あぁ小学生かい。何年生だね。勉強はどうかね」みたいな、親戚同士の集まりでも毎回聞かれるように煩わしい感じが、話しかけられなかったとしてもなんとなく、身構えてしまう、そんな気分を味わっていた。通っていた方の私が、そう感じているだけで誰もそんなことは思っていないかもしれないけど、私の、ラジオ体操に行きたくなくなる時の理由はそれだった。
そういう、うんと年上の人たちが集まっている空間ではいま、果たしてベンチの上にあるのは相変わらずラジカセなのかなぁと、思うわけで、スマートフォンこそ使っていても、ラジオアプリを使うことなく、「ラジオはラジオで聞くもんだ」と道具のOne×Oneな固有性を保ち続けているのだろうなあと、思うのでありまして。
ただ、もし私が公園で改めてラジオ体操を始めようと思って、家にラジカセがあるんだったらまずは「昔と同じように」ってそれを持っていくんだろうなと、そうとも思うし、それなりの確信がある。気分の話になるけれど、昔の気分の良さを頼りにまた始めるのだったら、また昔と同じようなスタイルで始めないとノれないのではないかって不安がうっすらとあるから、いきなり「スマホがあるしradikoでいいよな」と切り替えてうまくやれる腹はない。
なんとなく昔から続いているものの、なんとなく昔から、っていうところの構造に敬意を払うって、規模はでかいけどまちづくり等につながる大事な姿勢だよなと、夏の暮れに思う。

#ラジオ体操 #180917

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