『笑う』#287

10月に入ると、その10月って月のイメージが先行していくら残暑が残っていようと秋の気配を微かながらにでも感じ取って秋の訪れを事実化しようと目論んでしまう。
スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋、芸術の秋、さまざまに秋を形容する、秋を彩るフレーズは行為を伴って人間の全行動を秋に転化させようかという勢い。とはいえゲームとか睡眠とかフェスとか無いから、全行動は言い過ぎか。
お笑いも秋か、というとどうやらM-1が秋にやってるからそうかもしれないなと思いつつ、それで秋っぽいかといえばそうでもなくて、なんだかんだ年始の特番が「お笑いの秋」なんじゃないかと矛盾そのままに。
「笑う」とか「笑った」って言葉、特に「そう言って彼/彼女は笑った」って、すごく文学的、文語的だなぁって思ったのがさきほどのこと。人が笑ったことを、口頭で言うことについてあまり心当たりがない。「そう言って笑っていたよ」と、おかしな言葉ではないのだけれどどうも違和感がある。「笑いながらこう言ってたよ」の方は、まだありえる。これは文語でもありえる。「あいつ笑ってて。こう言ったんだよ」も、話し言葉ではありえる。文語でも、ありえる。でも、文章の中でこの言い方が出るとしたら、いまみたいにカギカッコ付きの、登場人物の喋り言葉として、というイメージが強い。
こうして考えてきたけれど、あくまで私のなかの文語と口語のイメージだから一般化することもはばかられるし、共感を得られるかどうかはわからない。ただ、中学生に英語を教えていると、ときどき文語と口語の違いを意識する。英語で書かれた文章を日本語訳するとき、文語的であるか口語的であるか、感じが変わる。最終的に日本語文に訳すと、どうにも文語的になる。中学生の先生がときどき言う、「英語は後ろから訳すと日本語の文になる」みたいなことは確かにあって、I played baseball with him today.を日本語訳せよと言われたら、私は今日彼と野球をしました、と書く。I today with him baseball play.と並べ替えるようなもんだ。だからといって、私は遊びました。野球を彼と。今日。こうやって並べて解答欄に書いたら△をもらえればまだしも×をもらいかねない。いっぽうで、長い英語の文章を、読んで理解することだけであれば、むしろ前から読み下していったほうが文章の流れのロスもなく、主語と動詞を捉えて目的語や補語・修飾語を追って読んだ方がいい。
そういう点で動詞は、形式的な文語では最後に置かれる。さらに、笑うって言葉について言えば、単なる動作だけでなく感情を表象する動作だから、あえて言葉にする場面以外では出てこない。「遊ぼうよ」と言葉にすることよりはるかに「笑おうよ」と言葉にするほうが難しい。話がどんどん脱線していて収集が付かなくなってきて困惑しているのだが、「遊ぼうよ」と彼は笑った、これを結びの言葉にしようと頑張ったけど「思い通りに文章を書くことって難しいわ」と悔しそうに笑うのだ、私は。

#笑う #181001

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