『やどかり』#314

幼い頃、水槽にやどかりを飼っていた。なぜやどかりを飼い始めたのかはさっぱり覚えていない。ただ、「人が住まない家はすぐに駄目になる」ことと同じ理屈で、はじめにすくってきた金魚を飼い始めて用意した水槽が空になってしまったとき、何かの拍子で巡り合ったやどかりに白羽の矢が立ったとか、そういう大人側の事情があったんじゃないかとうずらぼんやりと推察する。
何も、いまその回想をしているのは子供時代のことを語りたいわけではない。
先日まで読んでいた『生物からみた世界』にヤドカリが登場したのだ(科学的というか学術的な文に寄せるためにカタカナでヤドカリと書いてみた)。まるごと引用すると長くなるので要約する。いやそもそもその本のポイントのひとつに、「ある対象は、生物によって見え方、そして、それに対する自身の動作は異なる。そしてそれは逆にも言えて、知覚している動作からしか、その対象を認識することができない」みたいな。やっぱりこの要約より具体的なヤドカリの話を要約しよう。ヤドカリにとってイソギンチャクは、あるときには身を守る囮として、あるときには自身の宿として、またあるときには食物としてと、認識のされ方が違う(という実験結果を得た)というのだ。文章中ではイソギンチャクの3通りの見え方について「保護のトーン」「居住のトーン」「摂食のトーン」と、まとめられていた。ヤドカリからみたイソギンチャクの「作用像」についての実験だった。「作用像」については、例えば、私たちは「リップクリーム」を「唇に塗るもの」と知っているからいま迷うことなく使えている、つまりリップクリームの作用像を得ているから使えるわけだ。全く知らずに「何に使うでしょう」と渡されたら、困ってしまうだろう。「作用像」の話では、ヨーロッパでアフリカ人の青年を家に連れて行ったときに、ロフトに登るだかなんだかとにかく何かに登ってもらおうと「そこにある梯子を使って」と言ったら「支柱と隙間しか見えないけれど、どうやって」と困惑してしまったのだという。目の前で梯子を登って見せたら、青年は難なく梯子を使うことができたという。
やどかりの話からだんだんとズレていった気がする。
うちで飼っていたやどかりは初めから宿となる貝を身につけていた。少しずつ大きくなるだろうと思いながらいつも眺めていた。あるとき、お刺身だったか何かで、サザエの大きな貝があって「やどかりが大きくなったらこれに引っ越してもらえるな」と思って綺麗に洗って水槽に入れた。しかし結局、そのやどかりは引っ越すことなく命を終えてしまった。水槽にはついに引っ越されることなかったサザエの殻が残った。あのとき「どうして引っ越さなかったのだろうと思ったけれど、いまふと「おやっ」と気になったのだが、サザエの内部の巻き方と、もともと背負っていた貝の巻き方と、それは同じだったのだろうか、ということで、違ったら引っ越せないよなあとも思いながら「巻貝の貝の巻き方はすべて同じで黄金螺旋を描くんじゃないかね」といまさらに思ったのだけど、あのときのやどかりの写真もなければ記憶もなく、確認のしようがない。ただ、あのときの寂しさと悲しさは結構、こたえた。

#やどかり #181028

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