『国語』#357

言語ではなくて、教育課程における小学校の「こくご」や中学校の「国語」に相当する、教科としての、『国語』。
また、読んでる本からの話かよとなるかもしれない。哲学者の野矢茂樹さんの本「大人のための国語ゼミ」(山川出版社,2017)がとても面白い。とても面白く、とても恥ずかしい、恥ずかしいというのは改めて自分が「国語」をうまく学びきれていなかったことを知ったためで。ただし、恥ずかしいと思いつつ、面白いのは内容もさることながら、あのころ小学生や中学生でそのころの脳みそと枠組みで理解をしていた国語の知識と、いま学びなおしている大人のための国語の知識とは、本質的には変わりないのだけれど、いま大人になってから多種多様な語句の、理解できる幅・数ものすごく開けているので、「あのころと同じ内容を違う枠組みで捉え直す」そんな体験がどうも面白い。
いま28歳にして、接続詞の構造を改めて学び直す。ただし、それはかつての認識の4つくらいの「だから」系(順接)、「しかし」系(逆接)、「また」系(累加)、「たとえば」系(例示)のような、ひとつひとつの系統が広いレンジをもつ理解より、もっと細かな分類が追加(細分化)される。本から引用すると、付加、選択、換言、例示、対比、転換、補足、条件、譲歩条件、理由、帰結、これら11の分類を筆者は挙げている。ひとつの単語、たとえば「しかし」を例にとっても、対比であったり転換であったり、使い方によって分類わけされる。かつて「逆接」とだけ捉えていた「しかし」という単語でも、大人になって言葉の細かい使い分けをするようになれば、先の対比と転換の違いもわかる。本ではたくさんの例題とともに、かつて習った国語を、高い目線で足元に注意しながら懐かしい道を歩くように、新しい知識として国語を習い直していく。すらすらとは進まずじっくりと、ゼミを受講している。
受講を始めてからはあちこちで接する文章や会話の違和感に敏感になった。敬語の使い方(くださるといただくの使い分けとか)とか、読点と句点の置き方(やたらと読点で区切っているとか)とか、主語と述語がはっきりしないとか色々あるけれど特に目につくのが助詞。主語と述語がはっきりしないこととも関係し、また、助詞無しの文章が何気なく作られる(私もやる)けれど、助詞の使い方がおかしくてもなんとなくは読めてしまう、そのことも私を悩ませる。メールやビジネス会話で使われる「◯◯の件、よろしく」とか「集合時間、確認しました」とか、本来「◯◯の件を/はよろしく」だったり「集合時間を確認しました」だったり、何かしら動作の目的を示しているのが明らかだから省かれているのかもしれないが自分でも使いながら「妙だなあ」と思っているし、「嫌だなあ」と思ってもいる。でも、それでいいのだとする風潮があることは認めなければいけない。
日々、教養として身につけられるべき国語はアップデートされ続けている。違和感と戦いながら折り合って、汚く思われない言葉遣いをしていきたいものです。

#国語 #181210


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?