『アイデア』#360

これをわざわざ「日本語で言うと」となんて野暮なやり口をせずともそのまま、アイデアはアイデアだと言ってもいいような気もするけれどあえて、例えば幼い子どもに「アイデアって何」と聞かれたときに説明しなくちゃならないシチュエーションを想像して、説明文をつくるなら、どうするか。
自分自身でも言葉の意味を把握したきっかけを思い出せないくらい慣れ親しんだカタカナ語のことを、このノートの最後までにまとめたいと思う。
何かを意識するまで、それは大学院だか事務所勤めだかその頃だったと思うけれどそのときまで、主流の取り組み方に比して別アングルからアイデアを出すのが自分は得意だと自認していた。あるいは不意打ちとでも言おうか、ややこしいところだが例えるならば、ある問い解決することを城を落とすことに例えると、力で真正面から落とそうと試みることを主流の取り組み方だとして、それに比して2つの言い方ができる。城郭へ向き合う立ち位置を変えて死角から攻め入ろうと「入り口を変える」こと、これがひとつ。もうひとつは、正面から突入して攻防を繰り広げつつも大将の下まで辿り着き、対峙するなかで自分のコピーロボットをつくって相手と向き合わせておいて自分はひっそりと死角から関節技を極めにいくような「騙し討ち」を仕掛けること、正確に言うと騙し討ちを先に想定した上で正面突破を仕掛けること。その2つのアプローチで自分はいつも、何かしらの問題に遭遇した時に解決するためのアイデアを出してきた。数学で図形の問題を解くにしてもそう、ある意味では演繹と帰納と言っても良いのかもしれない、「わかるところから地道に解き進めていきゴールへにじり寄っていくこと」と「ゴールへの入り方と流れを想定した上で必要な情報を明かしていくこと」、双方向からのトンネル掘削作業。開通したとき、式と答えが一致する。その数学の問題でも、正面突破した上で最終局面を正々堂々と戦うかと言えばノーで、あらかじめ御する形を想定しておく。何かしらの問題に直面したとき、無駄な手数を増やしたくない、カッコつけの理屈で戦う。
いっぽう、世間にはブレインストーミングというアイデア出しの作業方法がある。出てくるアイデアに対する評価はせず構わずどんどんと出す方法。これが難しい。自分の中で思いついたアイデアも、脳から口までの間に有効性を考えるフィルターを通ることになる。脳から有効性フィルターを通さずに出る案というのは後々に恥を晒すことになりかねないと思ってしまって絶対に表に出せない。
その恥に関する点で最近、自分内パラダイムシフトが起こった。私にとっての有効性フィルターを通らないものでも、誰かにとってはフィルターを通るものがある、ということ。価値観の多様性、というと広大に過ぎるけれど、アイデアの価値は場にもよるし人にもよるし、時間にもよるものだ。と思うに至った。論理性に絡め取られない、審美眼の行く先。
だからアイデアは、「素案」とするのがいまはしっくりくる。

#アイデア #181213

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