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どうやってデザイナーになったのか思い出してみる

わたくしは大学でデザインの専門教育を受けたものの、通った大学の「デザイン教育」に絶望しておりました。「ただバウハウスでやっていたことを黙って覚えてればいいので頭なんか使うな、バカのくせに」とでも言わんばかりの旧態依然たる詰め込み教育、教授陣のアウトプットの質の低さ、デザインにおけるコンピュータの否定、などなど、いろんな要因があり、大学を卒業する少し前から、コピーライターとして働いていました。
で、もちろん初めはアシスタントですから、社長の補佐をしていたのですが、DTPソフトを使った企画書の作成が中心でした。時間が経つと、コピーライティングの仕事も任されるようになっていったのですが、なぜか自分の書いた文をレイアウトしてデザイン事務所に渡すようになっていました。で、それがそのまま印刷物になって流通していくことになり、そのうちアートディレクターの方がざっくりとディレクションし、コピーライティングからデザインまで、ワンストップで手がけているということになっていました。文字/タイポグラフィ周りの技術はこの頃身につけたものです。大学でもタイポグラフィを学んだのですが、実践する機会にたくさん恵まれたのは楽しかったです。

さらに、インターネットの商用利用が始まったときに、わたくしはネットの紹介記事の連載を持たされていました。社命で、その連載のWebサイトをなぜかつくることになり、ほぼ一ヶ月家に帰らず、書いたことのないHTMLを書き、どうにかかたちにすることができました。そうすると、大手の広告代理店から某公企業の企業サイトの話をオファーされました。それが、わたくしのWebデザインのキャリアのはじまりでした。

公企業のサイトは当時としては先進的なつくりだったようで、紆余曲折ありましたが、「企業Webサイトはこうあるべき」という姿を、代理店や企業の担当者様に提示することはできたようです。今考えると、非常に当たり前のつくりなのですが、背景画像がゴチャゴチャしたgifで、「ナントカちゃんのほ〜むぺ〜じへようこそ」的なサイトを、クライアント様は望んでいたので、「それは違うだろ」というスッキリしたものを作っただけなのですが...。

その仕事は、1000ページあまりのWebサイトの7割ほどをひとりでデザイン/コーディングし、Shockwaveだけ外注してアートディレクションするというハードなものでした。それで、ストレス性疾患で体を壊して会社をやめることとなります。聞くところによると、そのサイトの報酬は今ではありえないほどの高額だったようで、会社も潤ったし、まあいいか、と、療養生活に入りました。

しかし、いつまでも療養してもいられないので、体調が小康状態に戻った頃から営業をはじめてみたのですが、さっぱりうまくいきません。ほぼ黙殺されているような感じでした。その一方で、プロバイダのサーバ領域にグラフィックと当時のテクノロジーの実験を片っ端から作ってのせるということをやっていました。
すると、それが立て続けに「SHIFT」に取り上げられ、急に国内外からメールが増えるようになりました。当時住んでいた福岡からのオファーは皆無でしたが、東京からのオファーはかなりありました。それで、作ったものが割とご好評をいただき、次に繋がったという感じです。そういえば海外からのインタビューやデザイン誌の掲載のお話も何度かあり、仕事をさせていただきました。

今だとSNSがあるので、作品の発表などももっと拡散しやすいので、ある程度しっかりとものづくりに挑んでいれば、道が開けることが多いのでは、と思っております。

こんな感じです。

Webフォントサービスを片っ端から試してみたいですし、オンスクリーン組版ももっと探求していきたいです。もしサポートいただけるのでしたら、主にそのための費用とさせていただくつもりです。