見出し画像

サッカーに憑かれた者たち:青山生

今季から、九州の全県にJリーグのクラブが存在することとなった。
九州の地に住む、サッカーが大好きな者としてはやはり嬉しい。

キャンプ地としては有名なものの、「サッカー不毛の地」とも言われた宮崎県についに誕生したJリーグのクラブ。
「テゲバジャーロ宮崎」

そんな今熱いテゲバジャーロ宮崎の背番号2。右SBを務める青山生(あおやまいきる)選手から、話を伺い記事に纏めることができた。

U-17日本代表にも選ばれた経験を持ち、CBとしてプレーしていた時期も長い彼のストロングポイントは「守備での対人の強さとハードワーク。そして1番は危機察知能力です」と、やはり守備面。

J3初年度となる今季、守りの時間が増える可能性が高いなかで守備能力の高さが重宝されることだろう。

画像1

そんな彼の、これまでのサッカー人生、そして将来についても書き記す。

小郡南SC〜筑陽学園1年時まで

1996年4月11日に福岡県小郡市で生まれた青山は、「幼稚園の頃から友達を誘ってしていました」と言うほどにこのスポーツが好きだった。

そして6歳の頃、3つ上の兄がサッカーを始めたことがきっかけとなり、小郡南SCへ入団。

当時はFWかDFとしてプレーし、4年生の頃にはすでに6年生の試合に出場していた。
6年生の時には第32回全日本少年サッカー福岡県大会で優勝し、全国大会にも出場している。

中学生になってからは、VALENTIA FCというクラブでサッカーを続けることに。さらに中学校の陸上部が期間限定の活動であったため、こちらにも長距離の選手として参加していた。

しかし頑張り過ぎたのだろうか、中学2年生の頃には左脛骨疲労骨折を負ってしまう。
こういった影響もあり、中学生年代では目立った実績は挙げられなかった。

ちなみにこのVALENTIA FC、アビスパ福岡のバンディエラ・城後寿や、アビスパでプレーし今季松本山雅FCへと移籍した篠原弘次郎がプレーしていたクラブでもある。

話は戻る。青山は福岡の強豪・筑陽学園高校へと進学。
特待生として入りたかったのだが、その願いは叶わず。「普通生として入学したため、そんなに期待されていない選手」だった。

けれども、その評価をすぐに変えてみせた。
「1年目から絶対に出る」という強い思いを、練習の時から常に抱いていたことが成長へと繋がったのだろう。

前線の選手に比べてやや目立ちにくいCBを主戦場とする選手ながら、春の練習や試合でのプレーがBチームの指導者の目にとまり、夏のトップチームの合宿に参加できることに。1年生から選ばれたのは4人のみであった。

そこから徐々にトップチームでも出場できるようになっていく。

この年の筑陽学園のサッカー部は非常に強く、2つ上に金森健志(現サガン鳥栖)や中島大貴(一昨年までブラウブリッツ秋田)、1つ上にこの世代の代表の常連でもあった瓜生昂勢(現アスルクラロ沼津)などがいた。

その中でも青山は、1年生ながら高円宮杯U-18プリンスリーグ九州で6試合にスタメン出場。全国高校選手権福岡県大会のメンバー入りも果たす。

充実の戦力を有していたこともあり、準々決勝では選手権常連の東福岡を、準決勝では筑紫台を下し、レベスタ(当時)にて福岡県大会決勝を迎えた。

東海大五(現・東海大福岡)との試合は延長戦までもつれ込み、そして1-2で、敗れた。

「本当に強いチームだったので、負けた時は放心状態でした」
青山に出場機会は訪れなかったにも関わらず、この試合のことは脳裏に焼き付いている。

代表入り、筑陽学園を卒業するまで

画像5

2013年3月には「代表で、SBを探していると聞いた1個上の瓜生選手が推薦してくれた」こともあり、サニックス杯に挑むU-17日本代表に招集され日の丸を付けてプレー。

このサニックス杯の日本代表には高丘陽平やオビ・パウエル・オビンナ(現横浜F・マリノス)、町田浩樹(現鹿島アントラーズ)、松原后(現シント・トロイデン=ベルギー)、杉本太郎(現アビスパ福岡)など現在J1などで活躍する選手が数多くいた。

代表での感想を尋ねると、「高校生年代でも代表常連の選手は意識が高かったですし、スタッフから求められるものも高いなと感じました」

一方で「まだまだ実力が足りていないという意識が強すぎて何か学んでチームに戻ろうとしか考えておらず、思い切り出来なかったことは反省しています。絶対スタメンになるという気持ちがないとやはり勝ち残れないと思いました」と悔しさの残る代表でのプレーとはなったが、この貴重な経験が青山をさらなる成長に導いていく。

2年生になった青山は、チームで右SBとしてレギュラーに定着。
このSBとしてプレーした1年間がのちに繋がるのだから人生は面白い。

3年時には再びCBとして、もちろん中心選手となっていた、だが。
「夏に右足の脛の骨を2本折る大怪我をして選手権の福岡県大会決勝にしか間に合わない状況になってしまいました」

最初で最後の選手権に出場するチャンスだったにも関わらず、青山は仲間を信じて声援を送ることしかできなかった。
それでもこの大会のことが、筑陽学園での3年間の中で最も記憶に残っている。

「チームに迷惑をかけたにも関わらず、僕のためにとチームメイトが頑張る姿をみて感謝の気持ちが大きかったこと、自分自身が万全の状態になった時には大会を去ることになっていたこと、大好きな皆との大会がこんなにもあっさり終わることの虚しさなど色んな感情が混乱した大会です。そのせいか1番記憶に残っています」

チームはベスト8で敗退。青山は最後だからと、戦えるコンディションではなかったが10分間だけ出場時間を与えられた。万全を尽くすことなく敗れるという不完全燃焼感は、一方で現在に結び付いている。

「ここで負けたことが今も頑張る1つの理由かもしれません」
この後、何年かは選手権を観たくなかったそうだ。

福岡大学へ進んだ理由、乾監督に教わったこと

画像4

筑陽学園を卒業後、強豪・福岡大学へ進んだ。
青山ほどの実績があれば推薦で進学することが一般的だろう。けれども福岡大学には一般入試で入学している。実は、進路先が決まるまでには色々とあったのだ。

「高校の総監督から福岡大学はどうだ?と話は頂きました。でも、早稲田大学から声をかけて頂いたので早稲田を選びました。ところが受かるだろうと油断して、推薦入試に落ちてしまって。行く所ないってなって、必死に勉強して一般入試で福大のスポーツ科学部に入りました」

前回の中田永一選手もそうだが、成功体験だけでなくこういった失敗談も含めて話してくれるあたりに、彼らの人間性を感じるのは私だけではないだろう。

福岡大学のサッカー部に入部した青山は、乾真寛監督から「その身長(当時173cm)だとCBは厳しいと思う」と言われ、SBへとコンバート。

ここで、高校2年時にSBを務めていた経験がいきた。

福岡大学のサッカー部には4つのチームがあり、入れ替わりも激しい。その中で青山は、1・2年時は2番目のカテゴリーでリーグ戦などに出場。

3年生になり、トップチームの試合に絡めるように。「すぐにカテゴリーが落ちたりする世界だったので楽しかったです。いつも必死でした」

厳しく激しい競争の世界を、楽しいと言えるメンタルは青山の武器の1つだろう。

画像2

福岡大学時代に学んだことを、尋ねてみた。

「ディフェンス面での相手との間合いとアプローチの速度は、口酸っぱく言われました。その部分は今も変わらず意識していますし、DFにとって重要だと思います」乾真寛監督から教えられたことを、何年も経った今でもしっかりといかしている。

テゲバジャーロに決まった経緯、JFLでの2年間

大学を卒業後、2019年に当時JFLに所属していたテゲバジャーロ宮崎へ入団。
このクラブに加入した経緯についても、青山は正直に語ってくれた。

「Jのチームに行きたかったのが本音だったんですが、12月31日に最後の望みだったチームに入れる可能性がなくなって。福大のコーチに、サッカーがしたいのでどこかないでしょうか?と聞いたらテゲバジャーロ宮崎を勧めて頂き、練習参加をすることになりました。そして練習参加の結果、入団させて頂くことになりました。テゲバジャーロ宮崎の強化部の方が大学の試合を何度か観に来てくださったという背景もあり、入団することが出来たと思います」

それから宮崎の地で、J3への昇格を目指して2シーズンを過ごしてきた。

1年目は30試合中24試合に出場し1得点。昨年はシーズン自体が半分(15試合)になった中で、5試合の出場。そして念願のJ3昇格

画像3

この2年間を振り返ってもらった。
「理想通りの2年間ではなかったですが、選手として人として重要なことを気付けた2年間でした。結果として昇格できたのは最低限の目標だったので良かったです」

「また、サッカー選手は本当に結果が求められるし、結果を残せないとどんなに良い選手でもそれまでだなと。逆に結果を残せる選手はどんどん上へ行けると実感しました。そして結果が出てもコツコツやるべきことをやる選手が長く上のカテゴリーでプレー出来ると当たり前のことを教えられました」
当たり前のようで、実際に体験した人間が言うと物凄く説得力のある言葉だ。

禁断の質問かもしれないが、気になっている方も多いだろう。待遇面についても尋ねてみた。
「筋トレの日と2部練習の日、試合前日、オフの日以外の午後は少し働きながらプレーしています。もちろんテゲバからの給料もあります」

青山生の目標

Jリーグ1年目となる今季の目標、そしてプレーヤーとしての将来的な目標を問うた。
「今季の目標は、全試合フル出場することです。まずはそこを達成することで評価もついてくると思いますし、何よりそのほうが成長できるので」

「サッカー人生の最終目標は、日本代表でW杯に出場して最高記録を残すことです。ここは小さい頃からの夢ですので常に持っています」

目標や夢に向かって本気で努力する人は美しい。だからこそ、我々サポーターは選手を応援したくなる。

最後に、プレーヤーとしてではない、青山生という人物の目標を尋ねた。
「周りの人や僕と関わってくれた人達を勇気付けられたり、笑顔にしたりとポジティブな影響を与えられる存在になりたいです」

青山自身、非常に笑顔が多く穏和な印象だ。
いかにも彼らしい目標を聞くことができ、少なくとも私はすでにどこか嬉しい気持ちになっていた。


あとがき

前回の中田選手にしても今回の青山選手にしても、自分の想像を遥かに上回る凄い方からお話を聞けたことを幸せに感じています。

生い立ちからこれまでのサッカー人生、そして今後の目標まで。様々なことを丁寧に細かく話してくださった青山生選手には感謝の気持ちで一杯です。

今後のさらなるご活躍を、微力ながら応援させていただきます。
本当にありがとうございました。

※写真は掲載の許可を頂いております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?