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サッカーに憑かれた者たちnote版:杉山丈一郎[全文無料公開]

皆さんは「あしたのジョー」という漫画をご存知だろうか。

1968年から1973年にかけて連載されていたボクシング漫画だが、アニメ化や映画化もされ、私もそうであるように世代を超えてファンが多い。

人気の理由の1つは、主人公・矢吹丈(やぶきじょう)の不屈の闘志。読んだことがない方でも、「立て、立つんだジョー」というセリフは聞いたことがあるのではないだろうか。


今回の主人公は、サッカー界のジョー・杉山丈一郎さん。4月24日に27歳で現役引退を発表したばかりの彼から、話を伺い記事にする機会を得た。

紆余曲折ありながらも不屈の闘志でサッカー選手としてのキャリアを全うした彼のこれまでを、あえて時系列を反対にし、近年から順番に振り返る。

カンボジアで過ごした期間

欧州で2シーズン半を過ごした杉山は2018年6月、引退も視野に入れ日本へ帰る決断を下していた。
当時25歳の杉山は「若いうちにサッカー以外の世界ももっと知りたい」という気持ちを持っていたのだ。
ところが丁度そのタイミングでAngkor Tigerのオーナーから連絡が届き、急遽東南アジアのこの国に向かったのだった。

2018シーズンの後期リーグからのプレーとなったが、11試合で8得点5アシスト。SHの選手としてこの数字は素晴らしいものだ。

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カンボジアで活躍するためには、技術はもちろんしっかりハードワークできる選手であることが必要で、杉山自身もそこを意識してプレーしていた。
やはりどのリーグにしても、クオリティは高くとも守備を疎かにしたり走れなかったりすると長く活躍することは難しい。

また、カンボジアの暑さやピッチコンディジョンといった環境面にフィットすることも必要不可欠。
食事や生活環境といったピッチ外のことに慣れることができず、コンディションがフィットしない選手もいたそうだ。

それでも日本人は比較的適応しやすいかもしれない。
食事に関しては自炊をすれば日本とほとんど変わらない。日本の食材も売ってあり、日本人が経営している日本食のお店もあるそうだ。

近年のカンボジアリーグはリーグのレベルであったりクラブの環境や資金力が上がっており、杉山がプレーした2年半という期間でもそれを肌で感じることができた。

さらにJリーグでプレーしていた選手も加入するなど年々レベルアップしており、これから環境も整ってくるためさらにレベルの高い選手がこのリーグでのプレーを選択するのではないか、と杉山は見ている。

そんな彼はこの地にしっかりと適応し、計2シーズン半プレー。カンボジアリーグのオールスターに選出されるほどの活躍をみせていた。

だが、2020シーズンをもって退団。

他のリーグも含めオファーを待っていたが、納得のいくオファーには至らず先月、プロサッカー選手としてのキャリアを終えることを発表した。

引退という決断に至った理由は何だったのだろうか。

「色々な要素や思いがあった中での決断でしたが、1番はやはりサッカーに対して自分の気持ちがブレていたということです。
その中途半端な気持ちのままサッカーをしていて幸せなのか?と何回も自問自答しました。
でも僕のことを応援してくれている人達のことを考えると簡単な決断ではありませんでした。
正直な話をすると、3年前に日本に帰ると決めた時にも引退を考えていました。
その時の気持ちとしては、当時25歳だった僕は若いうちにサッカー以外の世界ももっと知りたい、と思っていました。
しかし縁がありカンボジアのクラブからオファーを頂くことができ、その時の熱量は凄かったと思います。
オファー無ければ引退していたかもしれなかったし、失う物は無かったというか。
そういう時って良い感じの緊張感で、良いプレーが出来るんですよね。
今、改めて思います。カンボジアに来て本当に良かったです。もっと遡るとドイツに行くという選択も本当に良かったと思っています。
だから、今回の引退と言う決断も本当に良かったと思えるような今後にしていきたいと思います」

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ドイツで過ごした期間

カンボジアの前に杉山がプレーしていた地こそ、ドイツだった。
東洋大学を卒業後、自分の可能性を信じて海外に渡ることを決意したのだ。

エージェントを通してドイツの6部や5部のクラブのトライアウトを受け、6部のクラブに加入が決まった。

ドイツは3部までがプロリーグで4部はセミプロリーグ。5部から下はアマチュアだが、多くはないものの基本給や勝利給、加えて住居の支給もあるという契約だったためサッカーだけで生活することができていた。

サッカー漬けの生活を送った杉山だから分かるであろう、ドイツ下部リーグのことを尋ねてみた。

「ドイツは3部までは全国リーグで、4部は5つの地域、5部・6部はさらに細かく分かれています。僕が所属していたのはアマチュアリーグですが、固定給や住居支給など待遇は悪くなく、リーグのレベルとしても5部の上位チームは日本で例えるとJFLぐらいのクオリティはあるのかなと思います。
JFLでプレーしていた選手が6部のチームに加入した姿も見ていますし、5部で一緒にプレーしていたGK寺沢優太選手が2021シーズンからJ3の長野パルセイロでプレーしていることを考えるとそれくらいかな、と。
比べるのは難しいですが、1度ドイツの5部の強豪がJFLで1シーズン戦ってみてどのくらいなのか見てみたいですね(笑)
僕が所属していたチームはお客さんは少なかったですが、スタンド付きのスタジアムを所有している古豪のクラブは1,000人以上が観戦に訪れます。クラブハウスやグラウンド、スタジアムをクラブが所有しているなど下部とはいえ環境はしっかりしていました」

この層の厚さ、この環境こそ、ドイツの強さの秘訣ではないだろうか。

杉山はドイツで2シーズン半・計3クラブでプレーし、5部のクラブにも所属した。
しかし、4部以上のリーグへとステップアップすることは叶わなかった。

東洋大学時代

高校を卒業した杉山は東洋大学への進学を選択、サッカー部へと入部した。

ところがここで、予想以上に苦しむこととなる。
個の能力は認められていたものの、「自分の戦術理解度が低かったのもあるし、パフォーマンスの波が激しく安定していないなと自分でも感じていました」
そういうことが原因でチームにフィット出来なかったのだ。

さらに、下の世代ではあったが同じく攻撃的なポジションに坂元達裕(セレッソ大阪)や仙頭啓矢(サガン鳥栖)など良い選手が集まっていたこともあり、レギュラーどころかトップチームに入るのが精一杯。
スタンドからメガホンで応援している時期さえ少なくなかった。

大学を卒業する杉山に対し、やはりと言うべきかJリーグのクラブからの誘いはなかった。

市立船橋高校時代

中学生の3年間を終え、杉山が選んだ進学先は市立船橋高校。
これまでに全国高校総体を9度、全国高校サッカー選手権を5度制している超名門だ。

杉山の代にも、和泉竜司(鹿島アントラーズ)や積田景介(FC琉球)がいた。
それでも入学当初から、上の学年とは実力に差があるものの同学年には負けていないと感じていた。

そして実際に、3年時には背番号8を与えられ主力に。164cmと身長こそ低いが、細かなタッチのドリブルを武器に活躍し、チームは高校サッカー選手権で決勝まで進出。

杉山は決勝戦にもスタメンで出場し、四日市中央工業高校(三重)を延長の末に破って日本一に輝いてみせた。

だがそんな杉山であってもJリーグのクラブからのオファーが届くことはなく、プロを目指す彼は東洋大学へ進学を決意した。

サッカーを始めてから、中学生まで

幼稚園の頃に咲が丘SCでサッカーを始めた杉山は、すぐに秀でたものを発揮。幼稚園の年長の頃には、小学生に混じって練習に参加するようになっていた。

その頃から1人でボールを蹴って、いわば自主練をしていた成果だろう。

小学生になってからも柏レイソルジュニアユースのセレクションに合格するなど頭角を現し、阿部勇樹(浦和レッズ)や明神智和がプレーしていた柏イーグルスの一員として小学6年生の全国少年サッカー大会千葉県予選に挑んだ。

ところが小学生年代最後の大舞台は、まさかの幕切れとなってしまう。

試合中にAVM (脳動静脈奇形)による脳内出血を起こし、そのまま入院。チームは千葉県の決勝戦まで進んだが、杉山はベンチからチームを応援することしかできず。非常に悔しい経験をした。

今回杉山が送ってくれた、治療中の写真がこちら。

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ガンマナイフと言う放射線治療の器具を頭蓋骨に固定しているものである。

ガンマナイフの治療は効果が出るまでに時間がかかる。プレーへの復帰自体は治療後数ヶ月で出来たが、治療してから3年くらいは半年に一回MRIによる定期検診に通う必要があった。実際に完治したのは、治療を受けてから約3年後のことであった。

この病気を患った際の、心境を問うた。
「出血した時は凄い頭痛があったのですが、それ以降に痛みは殆ど無かったので、当時小学6年生でまだ子供だった僕は、脳内出血の深刻さを分かっていませんでした。
2〜3日後には普通にサッカーが出来ると思っていたし、病気の心配よりサッカーが出来ないストレスの方が大きかったと思います。
病気のせいで小学6年生の修学旅行と、サッカーの全日本少年サッカー大会の千葉県決勝に参加する事が出来なかったんです。
修学旅行も楽しみにしていたので行けないと言われた時はショックでしたけれど、それ以上に全少の決勝に出れないことの方がショックで入院中のベッドでめちゃくちゃ泣いたのを覚えています。
病気の検査や治療にあたって、両親は必死になって良い病院を探してくれて、出来るだけ良い先生、良い治療を考えてくれていました。
本当に感謝しています」

中学生の頃はVIVAIO船橋でプレーし、そしてAVMが完治した杉山が選んだ進学先は「市船」こと市立船橋高校。
全国屈指の名門校であった。

杉山のストイックさ

何度もあった逆境を乗り越え、プロサッカー選手としてのキャリアを築いた杉山。

それを成し遂げられた要因、そして一方ではこのタイミングでの引退となった原因は性格的なものが大きかったように思う。

Youtube(ジョガドールTV)のトレーニング動画を見たことがある方はご存知だろうが、非常に真面目でストイック。
父親が厳しい人で空手の指導をしており、その父にサッカーの指導もしてもらったことが影響しているのだろう。

引退したために頻度は落ちたが、トレーニングは「健康のために必要なことだと思うので、死ぬまでやる」そうだ。

杉山丈一郎さんの今後の目標

今後どういったことをするのか、決まっているのだろうか。
「今後についてはやってみたい事はいくつかありますが、100%のベクトルをどこに向けたら良いのかはまだ分かりません。
サッカーを通じて得た経験や技術を子供達に伝えていく活動などもしていきたいと思っていますし、サッカーとは全くかけ離れた世界に飛び込んでみたいと言う気持ちもあります。
今後の活動については、YouTubeやTwitterなどのSNSで報告していけたらなと思っていますので、その時は宜しくお願いします」

今回杉山が取材を受けてくれたのにはこれまでのキャリアの振り返りに加えて、もう1つ理由がある。

「現在僕が患った病気(AVM)で苦しんでる人がいたら、そう言う人たちに勇気づけられるメッセージ的な内容にもなればと思っています」

AVMを乗り越え高校で日本一、そしてプロサッカー選手になったのだ。多くの方へ、強いメッセージとなることだろう。

これまでにいくつもの困難を打破してきた「ジョー」こと杉山丈一郎の不屈の闘志は、どの世界に行ってもきっと輝く。
その姿を、また詳しく聞かせてほしい。インタビューしていてそう思うほどの、人物だった。

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