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サッカーに憑かれた者たち:中田永一

前書き

今回初めて、ご本人から話を聞いたうえで執筆した記事となります。
実際に話を聞いて書く記事を「サッカーに憑かれた者たち」と名付け、普段の記事以上に渾身の力を込めて書きますので是非ともご覧ください。
サッカーに携わるその方の魅力を、少しでも感じて頂けると幸いです。
なお、本文では敬称を極力略させて頂きました。

はじめに

第99回全国高校サッカー選手権が、1月11日に終了した。
決勝戦は凄まじい激闘となったが、山梨学園高校がPK戦の末に青森山田高校を下し、11年ぶりの優勝を果たしている。


遡ること7年前。高校サッカーが好きな方ならば、第92回の選手権・準決勝のことを覚えているかもしれない。

三重の四日市中央工と富山第一の一戦。富山第一が1点をリードして迎えた、前半44分のことだ。
ゴールまで約25m、やや左の位置で四日市中央工が直接FKを獲得する。

左SBを務める、背番号15の選手が左足で蹴ったボールは6枚の壁を超え、大きく巻きながら落ちてネットを揺らした。
間違いなく高校サッカー史に残る、質の高いFKだった。

このFKの動画のリンクを貼っているので、ぜひご覧頂きたい。

https://youtu.be/4v6V-8Tv4YI

このFKを決めた男こそ今回の主人公。中田永一(以下、中田)である。

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名前を聞いて分からない方も、2019シーズンに京都サンガFCを率いた中田一三氏の甥と聞けば、グッと距離感が近く感じられるのではないだろうか。

ちなみに中田一三は、選手としても横浜フリューゲルス、アビスパ福岡、大分トリニータ、ジェフユナイテッド千葉、ベガルタ仙台、ヴァンフォーレ甲府と数多くのクラブでプレーしているため、そちらで覚えている方も多いことだろう。


話は戻るが、中田永一は現在、東海社会人サッカーリーグ1部でFC.ISE-SHIMA(FC伊勢志摩とも呼ばれる)でプレーしている。

Jリーグ加盟を目指しているこのFC.ISE-SHIMAを創設した人こそ、実は中田一三。だから中田永一にとっては強い縁がある。

とはいえ、ここでのプレーを選んだのは縁があるからという理由ではなく、自分自身を客観的に見ることができているからこそ。

この記事を全て読んで頂ければ、その辺りも分かって頂けるはずだ。

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三重県伊賀市で生まれた中田は、小学1年生の時にうりぼう上野95というチームでサッカーを始めた。

5年生の時にFCアヴェニーダソルというクラブへ移るのだが、ここの監督であった故関本恒一氏に指導を受けたことが中田の人生を大きく変えることとなる。

恩師・故関本恒一氏について

「この人無くしてはサッカー人生は続いていない。」と中田が言う関本恒一とはどんな人物だったのか。

三重の強豪・四日市中央工業高等学校サッカー部のキャプテンだった関本は、卒業後1997年から6年間サガン鳥栖でプレー(計89試合出場)。JFLからJ2へとステップアップをしていく鳥栖へ大きく貢献した。

その後は地元・三重で指導者になり、母校である四日市中央工や四日市大学サッカー部などでコーチを務めたのち、FCアヴェニーダソルの運営法人設立から関わり、監督に就いていた。

関本は「人生=サッカー」と記すほどサッカー愛に溢れており、誰よりも熱く、優しく、時には厳しく。その人柄は人々を惹き付けた。

中田は、関本から「サッカー選手である前に1人の人間として尊敬されるように行動する」ことの重要性を説かれ、学校の成績が良くなかった中学1年生の時には成績を上げないとチームを抜けてもらうとまで言われてしまう。

それは彼がチームのキャプテンであり、サッカーと勉強の重要性を伝えてもっと責任感を持ってもらいたかったからだろう。

厳しさもある一方で、その後実際に中田が成績を上げた際には物凄く褒めてくれた。プレーヤーとしてだけでなく人としても育てる、ということに長けていたようだ。

関本に憧れを抱いていた中田は、関本の母校でもある四日市中央工へと進学する。

しかし、1年時は1番下のチームのランニングにさえついて行けず。辞めようかと悩んでいた。そんな時、関本が「お前なら絶対できる。」と励まし続けてくれたことで、中田はサッカーを続けられた。

関本はその後、2013年に設立されたばかりのFC.ISE-SHIMAで現役復帰。しかし2014年8月に平滑筋肉腫が見つかり、闘病を続けていたが2016年1月23日、37歳という若さで亡くなった。

闘病中には支援活動が行われ、亡くなったのちには母校・四日市中央工のグラウンドに石碑が建てられたことが、人々に愛されていたことの何よりの証拠である。


中田永一にとっての転機

中田は2年生になってもずっとBチームだった。が、選手権の県予選を戦うなか、左SBの3年生が調子を崩してしまう。

そのため選手権の県予選準決勝でスタメンに抜擢され、そして中田はこの試合で決勝点を奪ってみせた。

ここからスタメンに定着し、そして冒頭に書いた選手権準決勝でのFKでのゴールにまで、一気に結び付くのである。

あのFKの場面について、今回中田に詳しく聞いてみた。
最初の質問として聞いた際には「たまたま入りました。」という謙遜したような答えだったのだが、色々質問したのちに改めて聞いてみたところ違う答えが返ってきた。

この言葉に、いちサッカーファンとして、震えた。
こういった舞台で結果を出した選手から、直に本音を聞ける機会など滅多にないからだ。

「初めてゾーンに入った感じがあり、ゴールが凄く大きく見えました。無心であのコースに蹴れば入ると思った。多くの人にたまたまやなと言われましたが、本当に狙いました。」

Bチームにいた選手に、県予選の準決勝から突如巡ってきたチャンス。その試合で得点して掴み取り、あの大舞台で狙って決める凄さ。常に出場した時のことを考え準備をしていたからこそできたことだろう。

これはサッカーに限らず、競争が求められる場全てに共通する大事なポイントであるように思う。

ただ実は、選手権準決勝のエピソードにはもう少し続きがある。
1-2と再びリードされてしまい迎えた後半28分、中田は今度はアシストし再び同点にしてみせた。
選手権準決勝でSBが1得点1アシストは物凄いことだ。

試合はそのままPK戦に突入。中田は3人目のキッカーを務めたのだが、ここで外してしまう。この影響もあり、チームは敗退となってしまったのである。

翌年、3年生になった中田は悔しさを胸に選手権予選に挑んだが、三重県予選の決勝で宇治山田商高に敗れ、選手権への出場はならなかった。

さらなる成長を機して、大学へ

高校卒業後、中田は九州屈指の強豪・福岡大学へと進学する。
そしてこのタイミングで、「SBではフィードとヘディングという自分の良さを出すのは厳しい。」と自らの意志でCBへと転向している。

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転向直後の1年生であったが、180を超える長身を武器に3ヶ月目まではトップチームにいた。
その後は膝の靭帯の怪我やメンタルの弱さからA2(2番手のチーム)になってしまう。

それでも、中田は自らを冷静に分析できていた。J1サガン鳥栖とのTMでフィジカルの弱さが身に沁みたことで、「A2にいた先輩の村田勉さん(現・ヴェルスパ大分)に筋トレを教えてもらい、2年時にはサッカー部で1、2を争うほどにムキムキになった。」というのだから驚きだ。

けれども2年時には若さのあまり監督に反抗してしまうなどし、一度もトップに上がれず。

3年生になると最初からトップチームに入ったが、スタメンではなかった。それでも、
「腐らず、意地でもスタメンで出ることを想像し日々トレーニングをしていました。」

高校生の頃もそうだが、中田は練習のための練習ではなく出場した時のことを想像して練習していた。だからこそ、チャンスが訪れた時に掴み取ることができるのだ。

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紅白戦で、4年生でキャプテンのCBが負傷してしまった。靭帯を切る大怪我だった。

「チームにとってはマイナスだったかもしれませんが、自分としてはついにチャンスが回ってきたと思ってしまいました。その週のリーグ戦は案の定スタメンで、得点も決めました。その試合からスタメンの座を掴みました。」

正直にこう語ってくれたが、競争がある以上はそう思うのも仕方のないこと。

そのままスタメンとして九州リーグを優勝。「デンソーカップチャレンジサッカー」の九州選抜にも選ばれた中田は、ゲームキャプテンを務め全日本選抜を撃破するなど活躍している。

4年時になるとチームの副キャプテンを務め、そしてここでついに、ビッグチャンスが訪れる。
「選抜やリーグ優勝といった結果を残したおかげで、Jリーグのクラブから練習参加の話も来ていました。」しかし…。

「練習参加の1週間前に太もも裏に違和感を感じました。診察に行くと、椎間板ヘルニアという診断結果。プレー出来なくなりました。怪我のせいか、いつの間にかJリーグのクラブからの話はなくなりました。」

厳しい話だが一方で、プロの世界とはそういうものだろう。
中田はその厳しさを味わうこととなってもなお、自らを客観的に見ることができていた。

「JFLの数チームからオファーはありましたが、この怪我で行っても出られないと判断し、叔父(中田一三)が創設したFC.ISE-SHIMAに加入することにしました。」

FC.ISE-SHIMAで、そして目標

中田はその後、怪我をケアしながら東海社会人サッカーリーグ1年目を戦い抜き、見事に2019年度のベストイレブンに選ばれている。
昨年は新型コロナウイルスの影響でリーグ戦が中止になってしまったが、すでに2021年シーズンに向けての準備は始まっている。

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シーズン中のスケジュールについても尋ねてみた。
FC.ISE-SHIMAはプロのクラブではないため、中田は仕事をしながらプレーしている。

「グループホームで介護の仕事をしています。8:00〜11:00にトレーニング、14:00〜20:00仕事。土日は練習または仕事。シーズン中はずっとこの流れです。」
非常にハードだ。心身共にタフになることは間違いない。

現在の目標は、「クラブとしてはJFL昇格。個人としてはプロ契約です。」とのこと。

もちろん現在はFC.ISE-SHIMAを昇格させることに全力だが、もしも他のクラブからプロ契約の話が届けば検討するだろう。プロになるということは、それほどに大きなことなのである。

元々、Jのクラブから練習参加の話もあったほどの選手だ。左利きで、183cmと高さのあるCBというだけで珍しいのに、左SBも出来、さらにご存知のようにFKの精度も高い。

「中村俊輔選手の左足を徹底研究した成果です。大学4年生の時には九州トーナメントの決勝でも決めました。今のチームにはレフティーがいないので、レフティーのコースになれば蹴っています。」
間違いなく、大きな強みである。

最後に、さらなる将来のことも尋ねてみた。プレーヤーとしてではない、その先の目標についてだ。
「父や叔父が会社を経営する姿を昔から見てきたので経営者になるということは人生でやりたいです。」

今はプレーヤーとして。その後は一人の人間として。中田永一の今後に、要注目である。

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後書き

私のようなただの素人にこのような貴重な機会を頂き、1つ1つの質問に本当に丁寧に答えてくださった中田永一選手、間に入ってこの縁を繋いでくださったとある方へ心より感謝致します。
本当にありがとうございました。

いちサッカーファンとしても、アマチュアサッカーライターとしても、1人のプレーヤー・人物のリアルに迫れ、この上なく楽しかったです。

まだまだ稚拙な文章ではありますが、この記事が多くの方の目に留まり、中田永一という人物の今後に僅かでも好影響があることを心の底から願っています。


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